Trankiel  Groningen - Japan
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タスマンの村

ルチェハストを訪問
 
 フローニンゲン市からレーウワーデン行きの電車に15分ぐらい乗って、フライスケルク駅に到着。そこには予約していたタクシーが待っていて、近くにあるアベル・ヤンスゾーン・タスマン生誕の地、ルチェハストへと向かいます。
 
 三つのオメランデン(州のフローニンゲン市以外の地域)の中で最も西に位置しているのでヴェステクヴァルティーという名前がついている地域に、私達は来ています。その西はフリースラントとの州境で、ラウヴァース湖に注いでいるラウヴァース川がそのほとんどの境となっています。
 ラウヴァース湖はラウヴァース海を閉切って作られた人造湖です。その中央から東にかけては、野鳥の豊かな自然地帯で、2003年の11月12日にラウヴァース湖国立公園となりました。一年後にはNCRVのTVプログラム「オランダの最も美しい場所」のファイナルで、名誉の第三位を獲得しました。ここは又、休暇にスポーツを楽しむのに最適なところです。多くの人がウインドサーフィンを楽しみ、ポルトガル沿岸からバルト海まで続くヨーロッパ・ウォーキングルートE9の途中に位置しています。ラウヴァース湖の西はこのルートのフリースラント沿岸道で、東側はワッド-ヴィアデンの道になっています。
 
エージンガ(写真:ヴィーデンラント博物館より)
 
 ヴェステクヴァルティーは、その北部が西ヨーロッパで最古の文化景観に属し、フローニンゲン市とリートディープで接し、ドレンテ州とも接しています。
 この海は西暦1000年頃まで自由に打ち寄せていたのですが、堤防が造られる以前既にオランダで人口密度の高い地域の一つになっていました。ヴィーデンラント博物館のある、よく知られたエージンガのようなヴィーの村々がそのことを物語っています。この地域には築堤の以前から、ミダッハ島とフムスターラント島という二つの島がありました。この古くからの島はユネスコの世界遺産に推薦されています。
 この地域に見るに価するものがたくさんあることは、明らかでしょう。
 
 
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ルチェハスト
 
 この村の名前が最初に現れるのは、知られている限りでは15世紀のミュンスターの大司教のリストにです。それはまだ、ミノーハスト、あるいは「ヨンゲハスト(若い客)」と呼ばれており、近くにフロートハスト、「アウデ・ハスト(古い客)」という村が既に存在していたことは明らかです。
 いくつかの大きな農場があったこの村は、歴史に残るような役割は果たしていませんが、ちょうど19世紀の初めにフーヘニンの土地台帳が見つかり、ボルフ(大邸宅)リッケルダ等が当時最盛期であったことが分かります。
 19世紀後半にルーチェハストの名前は、アベル・ヤンスゾーン・タスマンの生誕の地として、国内だけでなく遠い国外にまで知られるようになります。オノ・ズヴィア・ファン・ハーレンが書いた『新教徒』の中で、タスマンの名前はオランダの偉大な船乗りたちを列挙した中に載っています。ヨンクヘール(平貴族)のこの著者は、オランダ国とキリスト教について書かれた『日本について』(1775年)という本なども著しています。
 彼は偉大な人物でしたが、その名にちなんだタスマニアの発見者としての彼に関する資料で不明の部分があります。1603年という彼の誕生の年はおおよそ確定しているのですが、彼の両親についてや彼の少年時代については何も分かっていません。そのことはまだ理解できるのですが、お墓も分かっていません。今日に至るまで、彼の墓がインドネシアのどこにあるのか、突き止めることが出来ないでいるのです。「古兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉は、彼にも当てはまるようです。
 
 そのようなことはこの時代にはよく起こったのでしょう。先祖について調べる時も、書体があちこち違っているということがよくあります。はっきりしているのは、教会の南、今はアベル・タスマン道となっている所、「スイダー、あるいはミデルクルフト」にあった農場の一つに、ティアセマという家族が住んでいたということです。この農家は、フローニンゲン国立アーカイブにある『ティアセンスのクラウブック』の中に、この名前で載っています。この名前は、1567年と1585年の両方に書かれていました。これによると、その時代は持ち回り裁判官制度の慣習で、その農場の所有者は村の司法に携わっていました。
 クラウブックの中に、1603年と1621年にティアセマ家がこの権利を有し1621年にはトニス・ティアセマが村の裁判官であったということが記載されています。ここに書かれている人物は、おそらくアベルの兄弟かいとこでしょう。その姓がタスマに転訛したことは、ここがフリースラント語とフローニンゲン語の中間の言語が話される境界地域であることから、より理解出来るでしょう。つまり、二つのことが考えられます。フローニンゲン語よりもフリースラント語に近づいたということ。しかし、一番後ろのNという文字はどこからきたのでしょうか。
 彼がアムステルダムのテールケーテルステーフに住んでいた無名の頃に、自身で付け加えたと推定できます。
 この付け加えが1631年以降に見出されるのは、殆ど確かなことです。その年の12月27日、アムステルダムで次のような婚姻届が出されています。ルチェハスト出身、28歳のアベル・ヤンスゾーンと、アムステルダム出身、21歳のヤネティー・チャエルス。
 それが彼の名が最初に記された書類です。しかしなお、タスマンという苗字は無しでした!
 
 アーカイブの書類から更に、その若い船乗りは当時既に、娘の母であるクラエスケ・ヘンドリックスを亡くした寡であったことが分かります。その娘は後に、バタビア城の外科医長フィリップ・ヘイルマンと結婚することになります。
 
 1633年、アベル・ヤンスゾーンはバンダ号で東に向って出航し、それは彼にとっては昇進しての旅行でした。
 若い妻を恋しく思わなかったのでしょうか?彼が1638年4月11日、フリュート船エンゲル号の船長として再びその河口を選び、彼女を乗船させたという事実は、そのためだったのだろうと思われます。そして今また、東インドを目的地としています。旅行にどれだけ長い期間を要したかは、彼らがちょうど10月11日にバタヴィアに到着したことから明らかです。半年かかっています!
 数ヵ月後、彼とマタイス・ヘンドリックスゾーン・クアストは、知事であったファン・ディーメン将軍により、二隻の船で見知らぬ島の探検へと送られます。金銀豊かなその島は、日本の東に存在していると言われていました。
 その旅行については、1849年に出版された『ルチェハストのアベル・ヤンスゾーン・タスマンの旅行と探検』という本の中に書かれています。
 
 1640年、彼はフリュート船オーストカペル号で日本に到着しました。通商がいつも上手くいったわけではありません。フロートハスト自治体(ルチェハストが属している自治体)が作成した文書から、次のことが明らかです。
 1641年彼は指令を受け、東インド会社の許可証なしで日本やフォルモサ、カンボジアの水域を航海しているスペイン船やポルトガル船を拿捕し、その積荷と共にバタヴィアへ運びます。タスマンはポルトガル所有の中国のジャンク船二隻を奪い取りましたが、そのうちの一隻を失い、アベルは二か月分の給料を失う結果になりました。
 
 
 1642年8月14日、ルチェハスト生れのこの探検旅行家は、高速帆船ヘームスケルック号と平底帆船ゼーハエン号でバタヴィアから出帆しました。その旅の目的は、いわゆるザウトラント(南島)の探索で、10ヵ月後に彼は無事に帰りました。彼らはオーストラリアの西岸やタスマニアの南岸を航海しました。ニュージーランドへと針路が向けられ、彼の船乗りたちの幾人かが、そこで起こったマオリとの戦いで命を失いました。
 
 しかし、彼の身に起こったことは名誉や名声だけではありませんでした。1649年彼は、他ならぬ殺人の容疑で、バタヴィア城司法の法廷に立ちました。何があったのでしょうか?
 彼の水夫二人が規則を破り、激怒したアベルは二人を木に吊るすことを命じました。死刑を宣告された最初の水夫が首に綱をつけられて立っているベンチを彼自身が引っ張り、処刑執行さえ行いました。二人目は、アベルが処刑に興味を失くし、その最後を待たなかったので、その死を免れました。
 その起訴に対し、彼はいくつかの罪状を否認したのですが、後に認めています。彼は罰金1000レアルと訴訟費用150レアルの支払いを命じられ、司令官として又評議会メンバーとしての威信は更に低下します。
 しかし3年後には、彼の名誉は回復されます。
 
 タスマンはおそらく、その後数年間ジャワ島の沿岸で個人として商業に関わっていたと思われます。1657年、彼はバタヴィアの郊外にあった自宅で亡くなり、作らせてあった遺書にはルチェハストの貧しい人たちに25ギルダー贈与することが書かれていました。
 
 
アベル・タスマン資料館
 
 資料館の前でタクシーを降りたのですが、約束の時間には早かったのでその村を散策します。とても静かです。偉大な船乗りの生誕の地として関心を集めていると期待していたら、驚くことでしょう。
 後で、今日のこの静けさは4月の平日にここにやって来たことによるもの、と聞きます。夏の間は違っているようです!
 
 
 フローニンゲンの芸術家ハンス・メスの作品「テラ・インコフニートー」という名前のモニュメントの前で、少し年配の男性から英語で話しかけられます。「あなた達はアベル・タスマンに興味があるのですか?」
 少し話をし、彼が家族と一緒にニュージーランドのウェリントンからここに来ていることを知ります。「偉大な人物」という言葉で、少なくとも彼個人に関わる限り、アベル・ヤンスゾーン・タスマンは今も非常に尊敬されているということが明らかです。
 彼らと別れ、モニュメントに関心を向けます。貯水池と真鍮の線を組合せたモダンな造形の作品で、その中にニュージーランドの海岸線の一部が見分けられます。自由に形作られた像が、水上高くそびえています。
 
 
 そこからオランダ改革派教会の方に歩きます。1953年にオーストラリア政府からルチェハストに贈られた片面だけが浮き彫りになっているオブジェが、教会の正面にはめ込まれています。
言い伝えによると、アベルが生れた家はタセマヘールト農場で、それはこの教会の向かい側あたりにあったということです。
 さらに少し向こう、アベル・タスマンヴェヒ(ヴェヒ=道)には、1642~1643年の彼の最も重要な旅行の航海ルートが描かれた案内板があります。
 リッケルダヴェヒにやって来ます。そこには、1829年に取り壊されるまで、村で一番大事な建物、リッケルダボルフ(ボルフ=大邸宅)がたっていました。
 
 さらに歩くと、ゼーハーンストラート(ストラート=通り)に出ます。ここには前面に記念碑のあるフンダメント小学校があります。
 ゼーハーンストラートの他にも、アベル・タスマンの時代を思い出させる名前のついた通りが、たくさんあります。そのいくつかを挙げると、コンパスストラート、ヘームスケルクストラート、ファン・ディーメンストラート、フランス・フィッシャーストラート。フランス・フィッシャーは、タスマニア島やニュージーランドの発見をもたらしたタスマンの最も重要な航海の多くを共にした、一等航海士でした。

 それで終わりではありません。フランス・フィッシャーストラートからフローテハスター・モーレンポルダーに来ました。湿地や貯水池、かも猟の仕かけのある、この独自な造成された風景の中に、アベル・タスマン発見の小道があります。
 
 
 そこにも特別なオブジェが置かれています。ロブ・スフレーフェルによる「De Baak(デ・バーク)」という名前の作品で、10個の標石を積み重ねて作られています。長靴を持ってきていなかったので、ここ数日の雨で水の溜まっている湿地を、靴をなるたけ汚さないように歩くのが大変でした。
 そこを歩くのは早々に切り上げ、もう一度出直して来ることにしました。今度は長靴持参で!
 
 
 村の文化センター「ヘット・コンパス」まで戻ります。それは同じ名前がつけられた通りにあり、その右翼が「アベル・タスマン資料館」になっています。建物の前には、1992年にニュージーランド政府から贈られたブロンズのレリーフ像が置かれています。
 この小さな資料館で、ティネカ・アルヘラさんと会うことになっています。私たちはとても温かく迎えられました。小さすぎる、と皆が思うでしょう。人々は、フロートハスター・モーレンポルダーに計画されているような、資料館のための新しい建物を期待して待っています。
 ティネカさんが日本に関わる資料をたくさんテーブルの上に並べてくれたので、とても驚きました。多くのことを知り、満足な気持で資料館を出ました。
 
  アベル・タスマン、二番目の妻ヤネティー・チャエルスと
  最初の妻、クラースケ・ヘンドリックスとの間の娘
  カンバスに描かれた油絵 (106.7×132.1cm)
  ヤーコブ・ヘリッツゾン・カウプ作(1637年)と見なされている。
  シドニー国立図書館(オーストラリア)所蔵
 
 
*アベル・タスマンについてのサイトです。
 
  アベル・タスマン(ウィキペデイア)(日本語)
 
  Abel Tasman(英語)
 
  The discovery of New Zealand(New Zealand in History)(英語)
 
 
 
*ラウヴァース湖国立公園などのサイトはオランダ語のみなのでリンクしていません。
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