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ヤニー・コルホルン















シーボルトについての本
シーボルトについての本


ファン・レネップとファン・ホーヘンドルプの旅行記
オルダムトのことが書かれている章
オルダムトの菜種畑










菜種
黒いゴールド



































菜種畑
農場で
菜種の花盛り
農作業
農地の印象
黒いゴールド
PPOで運転












フェールマン大臣によるオープニング














プレス機

加圧後:黒いゴールド

































































プレゼント




























右のリンクはオランダ語のサイトです。他の写真も載っています。
1. ロゴ



ノード・ネーデルランセ・オリ-モーレン
(北オランダ・オイル工場)

PPOの御蔭でOldambt(オルダムト)の昔が甦る?


 1823年のことです。その年の8月10日にデ・ドゥリー・ヘズスタース(三姉妹)という名前の船が、27歳のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、日本人がヤマ・オランダ人と呼んだオランダ政府に雇われたドイツ人を乗せて、長崎に入港します。彼は出島の新しい商館長ヨハン・ヴィルヘルム・デ・ステュルレル大佐の商館付き医師として、日本にやってきます。医者で自然科学者、その後『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』のような大著を執筆したフォン・シーボルトは、そのほんのしばらく後に、10代の楠本ソノギ(タキ)と結婚し、バタヴィア政庁の要請により出島の植物庭園の造成に着手します。
 彼が遠く離れた出島で勤めていたオランダ王国は、当時まだ若い国でした。その大部分は手付かずの人の住んでいない土地で、その中を旅行することは、魅力的ではないこともよくありました。その国土の三分の一は通行不能です。そして何とか通れる所も、舗装されていない道です。その船が大洋を航海するオランダの力は、日本で想像するほど豊かなものではありませんでした。
 フォン・シーボルトが「オランダ人」として最初に日本に足を踏み入れたこの年、彼と同年輩の二人、ライデンの学生ヤコブ・ファン・レネップとディルク・ファン・ホーヘンドルプは、彼等自身の祖国をもう少しよく知ろう、と決意します。徒歩で、引き船で、乗合馬車で、彼等は北部のプロヴィンスを旅行します。その旅行中につけていた日記は、その全ての箇所が同じ正確さで書かれてはいないのですが、立寄った様々な場所や地域の様子を、私達に伝えます。
 オルダムトでの経験について、有頂天で彼等は語ります。「畑は花盛りです。」と。続けて、もし菜種がそんなに霜害を受けていなかったら、もっともっと美しかっただろう、と観察します。そして、二人が「ブーデライエン」と呼んだ、農場主達の住宅について書きます。「ベースター・ハムリック」では100以上のブーデライエンを見ます。それらはそれぞれ3階建てで、とても大きな納屋があり...

 1823年のこの若い旅行者達の日記にはあちこちに誇張もあるのでしょうが、当時オルダムトが裕福な地域であったことは確かな事実です。肥沃な海の粘土が豊かな収穫をもたらしました。ここに住み働いていたのは、その豊かさが知れわたっていた誇り高い大地主達で、彼等は北西ヨーロッパのとても進取の気性に富むな農場主と見られていました。ここで言うその誇り、その自信と頑固さは、今もこの土地の住民の性格的な特徴として存続しています。このフルナハー(フローニンゲンの地の人)達を知っておかなければ! 彼等自身はフリースラント人と一緒にされたくはないのでしょうが、彼等の傲慢さや独立心は、その西の隣人フリースラント人と違ってはいません。実際のところ彼等フルナハー達は、フリースラント人とは別の部族ハウケンの子孫ですが、フリースラント人とは違っていると感じるこの気持ちがずっと存在し続けていたのではありません。かつて、ここがフライエ・フリーセ・ゼーランデン(自由フリージアンの海の国々)の一部であったことは事実です。フローニンゲン市による抑圧にうんざりし、むしろドイツ帝国に戻りたいと思っていたオルダムトの農場主達は、1672年に自分達のことを「アウデ・フライエ・フリーゼン(古い自由フリースラント人)」と称していました。しかしその後、フルナハー達とフリースラント人達の間は疎遠なものになります。

 ここフローニンゲンの粘土地帯 - それは国境を越えた所、ドイツの東フリースラントでも見られるのですが - は、19世紀までは、ヨーロッパで最も繁栄した農業地域の一つでした。今日の農場主の一人、ニーウヴォルダに住むパウル・ルーロフスは、彼のウェッブサイトでこのことに言及し、彼等がそこで菜種のことをそう呼ぶ「オルダムトの黒いゴールド」について、「2世紀半前には、一つのドラルトポルダーの完成は1年間の収穫によって支払われました!」と書いています。
 しかし様々な進展を通し、農場主達はその卓越した地位を諦めざるを得ず、穀物男爵が没落するという問題と直面するようになります。

 今日、現代人は再び、社会のいろいろな進展を目撃しています。直接的な、あるいは間接的な形で世界的に現れる変化。以前と同様、それらの結果として問題が生じています。至る所で、人々は次のような問題と直面しています。大気汚染、地球温暖化、オゾン層の破壊、溶ける極氷、海面の上昇、差し迫ったエネルギー不足。ここ、家のすぐ近くでも、同様です。エネルギーの価格がますます上昇する結果、工場が直面している問題について、新聞は度々報じています。既に、工場閉鎖や大量解雇の脅威が存在しています!
3つの原因が考えられます。(中国など)ますます増大するエネルギー需要。中東情勢の不安。そして特別にここに関わることとして、ガス価格と石油価格との連結。
 私達はフローニンゲンの巨大なガス田の上で生活しているのですが、石油価格との連結のため、自分達のエネルギーを安価に使えるということ-それはとても理に適っているのですが-を意味していません。

 1997年12月に開催された地球温暖化防止京都会議で、京都議定書が気候変動枠組条約に基づいて採択されました。これは6種類の温室効果ガスの排出量を削減しようとするもので、先進国の削減率を1990年を基準として国別に定めたものです。それが実際に効力を持つのに、2005年2月16日までかかりました。それまで批准するのに必要な多数国の批准が得られなかったからです。2004年10月23日にロシアが批准して、やっとその数に到達出来ました。このためには、ロシアが世界貿易機関に加盟するための援助をEUは求められました。
 京都議定書は現在に至るまでいつも、アメリカ経済の不利益を懸念するブッシュ大統領の署名が得られず、痛みのあるものとなっています。

 2005年10月1日、スウェーデンの持続的開発のための大臣、モナ・サーリンは、この問題について次のように述べています。「気候変化は、私達の時代の最大で最重要な環境の挑戦です。世界の気候研究員の殆どは地球の気候システムが変化している-そしてこれらの変化を遅らせる為には、温室効果ガスの排気が削減されなければならない、ということに同意しています。政府はそれ故、新しい政策目標、スウェーデンの化石燃料依存を2020年までに脱するために必要な条件の創設を設定しています。」
 その2年前にはEUが加盟国に、2010年には輸送燃料の5.75%をバイオ燃料にするよう訴えました。PPO(Pure Plantaardige Olie:純粋な植物性油)の領域では、ドイツが数年前にモデル国として挙げられました。オランダでも、人々がただ手を拱いていたわけではありません。例えばハイン・アベルソン氏と彼の息子達がいます。彼等の会社ソーラー・オイル・システムズは、エスルベス・エンジン、とりわけPPOで走るトラックに使うエンジンの、オランダでの特許を持っています。PPO消費税の免除に関わり、彼はデン・ハーグで議員などへ強く働きかけました。彼が実際に実現したこと、それは、消費税を免除したオイルはオランダのプレス機からのものでなければならないことが条件とされたものでした。そして、そのような …… そのようなものは存在していませんでした。

 オイル工場を実現するというアベルソン氏の要請に応じ、ノード・ネーデルランセ・オリ-モーレンを始動させたのは、三人のオルダムスター(オルダムトの地の人)でした。ここ、このプロヴィンスに住み働く人々の歴史-先に簡単に説明し、私が馴染みつつあるここの人達の歴史-が、多分そのことを理解し易くするでしょう。今再び、彼等の特徴的な性格が、その全体のプロジェクトに決定的に重要な役割を果たしているのが見られます。更に彼等が、ただ古い信頼できるものを保ちたいだけでなく、時代の変化についていきたいと思っていることも、確かなことです。彼等は情熱的に、確信に満ちて困難に真っ向から立ち向かい、充分という以上に全力を尽くしています。この固執、この専心、この熱意が導くであろうものは、まだ、はっきりと言うことはできません。というのも、これらは実際、外部の要因、当局の姿勢等に関連しているからです。ノード・ネーデルランセ・オリ-モーレンの人達の努力だけを見ても、19世紀にヨーロッパで最も繁栄していた農業地域の一つであった所が、PPOの生産や供給に関わる著名な地域へと発展することは、私達を驚かせることではありません。

 それはもう、幻想を追いかけることではなくなっており、実際に成長するマーケットの出現が多くの事実によって実証されています。例えばフェルアイニクテ・ヴェルクステン・フュア・フランゼンアゥルテクノロギー(VWP)は既に、ドイツやオーストリアの何百台もの乗用車やトラックを、PPOで走れるように改造しています。オーストリアでは、植物油を使ったトラクターが推進されています。何というアイデア。農場主が自身の収穫物で運転する! 又、この環境に優しいトラクターを既にシリーズで製造しているのは、アメリカ合衆国の有名なトラクターのメーカー、ジョン・ディーアです。そしてオランダでは、これまでに150台のトラックがPPOで走っており、それらの自治体は市バスをこのオイルで走らせることを真剣に考えています。
 オイル社会は、PPOをディーゼルに混ぜることを始めています。このいわゆるバイオディーゼルは全てのディーゼルエンジンに適しているので、車を改造する必要はありません。
 そしてもちろん価格が、オランダでは大変重要です。PPOはとても安価です! 新しく発表されたカーモデルは、40,000 kmを 1,500リットルのオイルで、言いかえると1ha の菜種で、走ることが出来ます!

 ノード・ネーデルランセ・オリーモーレンへの訪問は、嬉しく、又とても興味があります。フリースラントから農家の人達のグループも来ていて、農業世界でのこの新しい発展に同様の興味を抱いています。フローニンゲンとフリースラントの人達の間の疎遠さは、全くありません。その反対、と言えます。

 私達は入口で、オルダムスターのヤニー・コルホルンさんの心からの歓迎を受けます。彼女はノード・ネーデルランセ・オリーモーレンの共同創設者でもある、スポークスウーマンです。デルフザイル自治体に属するヴォルデンドルプで夫と一緒に農場を経営している農業者として、彼女は自身を紹介します。彼等は主として穀物を栽培しているが、それと並んで菜種栽培の23年間の経験を誇りにしているということ。菜種は当時、特に隣接したドイツに輸出されたこと。
 この分野で多くの経験があり、又熱意に満ちているこの女性は、明らかに聞く者を直ち魅了する術を知っています。彼女はそのガイドツアーを、オイル工場の起源を簡単に話すことから始めます。ハイン・アベルソン氏がデン・ハーグで、PPOの消費税免除のためにどのように働きかけたか、又、オランダ内に「プレス機」がなければそれは実現出来なかった、ということを。そして、アベルソン氏がそのチャレンジ精神でオルダムトの三人の農場主達と(その中で彼女自身と)コンタクトし、その三人がとうとう実際にこのオイル工場を実現したということを。

 2005年7月6日、当時の農業大臣 P. フェ-ルマンによる公式オープニングで、彼は、バイオ燃料の使用がよりクリーンな環境への貢献のために重要である、という認識を、スピーチの中で述べます。同時に、オイル工場の共同所有者である農場主達が、当局の対応を待つことなく自分達自身で未来を開拓していることを称賛します。フルナハーの性格を少し知っている者は、このことには驚きません。
 現在、60以上の菜種栽培者がオイル工場と提携した株主 - 彼等が51%の多数株を所有 - となっています、とヤニー・コルホルンが話します。その他の株主達-少数株を所有-の中にアベルソン氏のソーラー・オイル・システムズも見られます。
 農場主達が真剣であることは、入手できる数字からも分かります。例えば、まだオルダムトには200ヘクタールの菜種しかなかった年と比較すると明らかです。オイル工場がやって来た直接の結果として、かつて「オルダムトの黒いゴールド」と呼ばれたものの栽培がほとんど10倍になりました。

 ノード・ネーデルランセ・オリ-モーレンは、ファームスムのコパーヴェヒにある「穀物会社ニーフェーン有限会社」の敷地に設立されました。幾つかの理由で、この場所が選ばれました。その最も重要なものは、既にある計量台。菜種の乾燥に使うことが出来る穀物乾燥機。十分なサイロのスペース。そしてそれは水路、ここの農家から充分な菜種が得られなかった場合も菜種の供給を保証することが出来る、エームス運河の隣に位置しています。建物の中にはかなりの数のセンサーがあり、触ると全自動のプロセスが妨げられる可能性があります。撮影、写真を撮ることも又、出来ません!

 私達は階段を上り、2階へ。工場の実際の心臓部へ。ここ、隔離されたスペースにはプレス機が置かれ、その後には菜種の貯蔵場所があります。そこは年間を通じて、温度が摂氏3度~4度に保たれています。
 ここで「冷加圧」を話さなければなりませんが、この加圧が始まる前に貯蔵された菜種は少し予熱される必要があります。3度~4度は、そこから充分なオイルを取り出すには冷たすぎます。菜種は約40~45%の自然の油を有しており、3分の1が油、3分の2が滓です。ここで適用されている、少し予熱された冷加圧で、33%の油が得られます。もし予熱せず、3度~4度の温度で菜種を加圧すれば、油の生産はたった15%になり、生産高がとても低くなります。軽く予熱するためには、加圧自体の余熱が使われます。
 工場、オランダで最初で唯一のこの種の工場は、無人のフル操業で24時間で23トンの生産能力があります! 1日24時間、週7日、全自動のオイル工場は、ドイツにも存在しません。デルフザイルに、ノード・ネーデルランセ・オリーモーレンに、それはあり、24時間で7,000リットルの油が生産出来ます。このフルタイムで働くプレス機の横には、2番目のもののためのスペースもあり、従って生産の増大が可能です。1日に14,000リットル、あるいは、年間ベースで優に5億リットルへ! この実現は、いくつかの要因、例えばPPOへの需要やこれに対する政府の姿勢、に依ります。その次に、もちろん、得られる菜種の量にも依存するでしょう。その収穫については、冬菜種はへクタールあたり4,500kgと言うことが出来ます。ヘクタールあたり、1,500リットルの油になります。オルダムトから大阪まで運転するのに充分です! 夏菜種の方は、より少ない油生産です。
 ここの農家の人達は、義務として作付け出来ない区画でのノンフード生産-燃料や石鹸の原料とする-としても、菜種を栽培しています。他方、いわゆる自由菜種、食用としてや食用油やマーガリンの生産、燃料に使われるものも栽培されています。先に述べた義務としての非作付は、ブリュッセルが1993年、市場やそこでの価格を統制するため市場調整穀物を10%少なく栽培することをEU諸国に義務付けたところから来ています。望んだ結果ではないものです。ヤニ-・コルホルンは説明します。例えば私達の家で、80ヘクタールの内の8ヘクタールでは穀物の生産が出来ないけれど、もし私達が望むなら、その8ヘクタールにノンフード用のものを栽培することが出来るということを意味します、と。
 加圧後、油の濾過が続きます。燃料は清浄でなければなりません。すべての残り滓がそこから取り去られなければなりません。

 純粋な植物油で走らせたいエンジンは、それに合わせる必要があり、既に存在するエンジンはPPOを入れる前に改造されなければなりません。この燃料は環境に優しく、燃焼で発生するCO₂は植物自身が成長過程で同化するCO₂と同量です。これは、地殻の下からやって来るエネルギー(石油)とは著しく異なっています。後者はCO₂を発生させますが、全くCO₂を同化しません。言い換えると、冷加圧した油の使用はCO₂のバランスを保ち、そのため汚染はありません。同時に、燃焼で生ずる煤は他の燃料よりかなり少なく、害はとても少ないと言えます。
 より素晴らしく、環境に優しいものを想像出来るでしょうか?「いいえ」と答え、すぐに「まだ小さな水分の問題があるのですが」と付け加えます。冷加圧のために、PPOの中にグリセリンが残り、このグリセリンがそれ自身に水を結合します。油中の大量の水滴は(改造した)エンジンを動かなくするという不利な点があります。これを防ぐために、一定の国際DIN規範があり、PPOの生産者として又PPOの供給者としてそれを満足させなければなりません。それには次のように書かれています。油中の水の最大許容量として、700パーツ・プロ・ミリオン。すなわち100万の油滴に対し700の水滴です。
 人が「水分の問題」に出くわすのは、ここノード・ネーデルランセ・オリーモーレンだけではないということは、ドイツの技術者がそれに対して簡潔に述べている言葉から明らかになるでしょう。「実際、それらは皆、その問題を抱えています。疑いなくそれは、『初期の困難』というタイトルの下に分類出来、すぐに過去のものとなることでしょう。」

 燃料以外に、ここ、ノード・ネーデルランセ・オリーモーレンで取出された油は、食用油や石鹸の製造にも使われています。石鹸は旧アリスト・ベードゥムによって市場にもたらされ、フローニンゲン州のVVV(旅行案内所)で入手出来ます。食用油に関して言えば、まだビジネス計画が進行中です。ノード・ネーデルランセ・オリーモーレンは、これにも多くの自信を持っています。特に、この食用油に含まれるオメガ3脂肪酸の割合が健康にとても重要なので、この見地からその市場があるだろうことは確かだと考えられます。ヤニ-・コルホルンは、購買された菜種の約5~10%が「自由(菜種)」で、そのためそれは消費市場で使われることが出来る、と話します。
 残りの滓には、蛋白質がとても豊富であり、コンテナーで輸送されて折紙つきの牛の飼料として使われます。そうです、品質証明付きです! それはしばしば濃厚飼料と混ぜて使用されます。
 取出された油は、全体のプロセスの最後に、10万リットルの油を貯蔵できるコンテナーに入れられます。2週間の産物です!

 とても魅力的なガイドツアーの後、休憩室でコーヒーを楽しみながらいろいろ質問するための時間がとられています。たっぷりの時間。もちろん、そこでは財政面についても話題に上ります。政府の助成金なしで行われていることが明らかになります。よりクリーンな環境の重要性や新しい仕事の創設という点から考えるなら、信じられないことです。アベルソン氏の止まない努力の御蔭で、当時の大蔵大臣G. ザルムにより、年間ベースで2,300万リットルの消費税免除を与えられました。しかし、もし2番目のプレス機の設置が決定されるとすれば、ここで優に500万リットルの油を生産することが出来ます。政府の態度が少し「kruidenierspolitiek(乾物屋の政治)」のようだという考えから逃れることが出来ません。ここで初めて聞いた、国や地方の政府のことを時々評する言葉です。質問したいことが浮かんできたので、それをヤニ-・コルホルンに向けます。
「穀物の栽培がオルダムトで主要であることは理解できました。何故なら、それが菜種の栽培より儲かるからです。その確かな事実にもかかわらず、将来まだ菜種の栽培がより多くなると考えられるのでしょうか?」
ヤニ-・コルホルンの答え。「世界的にエネルギー市場はより乏しくなってくるので、燃料の原料として使うのに適した農産物の価格は上昇するでしょう。菜種油の価格の上昇だけではなく、穀物や、例えばジャガイモやビートの価格もです。これらの農産物の全てから、何らかの方法でエネルギーを得ることが出来ます。」

 ノード・ネーデルランセ・オリーモーレンに関心を示し、訪問したことへの感謝として、一人一人に、特別な瓶入りの食用油が用意されています。とても素敵だ、と思います。
 頂き物を自転車のバッグにしまい、頭の中はオイル工場のことでいっぱいのまま、家に向かいます。何故かフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトのことが心に浮かびます。彼は科学者として、この新しい発展にとても興味を抱くことでしょう。医師としてもきっと、自然の産物の使用を応援することでしょう。もしシーボルトがヤニ-・コルホルンのガイドツアーの間、それに聞き入る一人であったなら …… という考えが心をよぎります。それは単なる想像なのでしょうか、それとも青い大空にぼんやり現れた微笑を、私は本当に見ているのでしょうか...


21.

                                              ( 2006年6月)

 *写真提供は:
      ノード・ネーデルランセ・ オリーモーレン・BV ( 1, 18, 19 );
      ヤニー・コルホルン ( 2, 17 );
      ポール・ルーロフス ( 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 21 )
           






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