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 ヤン・ファン・フェルセン(Jan van Velsen)の絵

              
 ― ホルヴィーデの思い出
 ―

 今日の世界で、素敵なニュースで嬉しくなることはめったにないのですが、2006年4月8日のニュースはそんな稀なものでした。「ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン」は「描かれたホルヴィーデの思い出」という見出しの5段記事で、ホルヴィーデの村に住むヤン・ファン・フェルセンという画家についての奇跡的な話を載せました。その奇跡的な物語とその絵画をここに紹介しましょう。

 ホルヴィーデはデルフザイル地方自治体に属している村の一つです。語尾にある「ヴィーデ」は、この村も又、堤防が未だ存在せず人々が小丘「ヴィールデ」の上に住んでいた頃に遡る、長い年月にわたる歴史を持つ村であることを示しています。

 ステーファヌス 教会と呼ばれる、村で唯一の神の家は、小丘の上に建てられています。そのヴィーデはある時期、部分的に掘り取られたため完全な姿では残っていません。教会は、12世紀から14世紀の間に建てられました。記念の銘板は、1567年に教会の構造が変えられたことを物語っています。これから話す物語の中で、その教会は、いくつかの目立った役割を演じることでしょう。

 私達は、1945年4月、ヒトラー率いるナチ・ドイツの役割が殆ど演じ終わられようとしていた頃に戻ります。殆ど、というのは、まだ様々な場所で戦闘が荒れ狂っていたからです。オランダで、フランス時代にも起こったように、最後まで占領されていたのは、再びデルフザイルとその周辺でした。それは「The Pocket of Delfzij」として知られるようになるでしょう。港町では何もかもが欠乏していました。電気も水も暖房もありませんでした。人々は、自分達の家にいることが出来た時は、最良の環境を作ろうと試みました。ろうそくの光や石油ランプと、いわゆる非常用のヒーターを使いました。しかし、そこでは激しい砲撃が頻繁に起こりました。そんな時には、家から逃げ出し防空壕の中に保護を求めなければなりませんでした。
 苛酷な戦いの後、カナダ軍はアピンハダムを攻略しました。彼等はデルフザイルからたった5kmしか離れていないところにいたのですが、そこからの通路、この比較的小さな区域は、とても通行できるものではありませんでした。ドイツ人達はそこを水浸しにし、対戦車壕と地雷が、恐ろしい情景を完全なものにしていました。カナダ人達は、そのため、正面から攻撃せずに挟み撃ちにすることを決めました。南では、デルフザイルへの攻撃は、ヴォルデンドルプの村から開始されることになりました。北では、ホルヴィーデから為されなければなりませんでしたが、この村はまだドイツ軍に占領されていました。
 そのためビールムの村から、カナダの「ペルス連隊」が1945年4月24日ホルヴィーデへ進軍しました。それは生き地獄になりました! 絶え間なく軍隊は攻撃を受け、特にナンスム近くのドイツの砲台からの砲火に苦しみました。彼等にとって、それは「a pain in the neck」でした。連合軍はそれを黙らせようと、空からの攻撃を試みましたが、失敗に終わりました。
 その全てにもかかわらず、ペルス連隊の男達は双方に多くの死傷者を出した激しい戦闘の後、村の北部に何とか到達しました。しかしドイツ人達はへークト川に掛かっている橋を爆破し、ホルヴィーデの東部へ撤退し、村は二つの部分に分かれました。


≪ナンスム近くのドイツのバンカー≫  ≪へークト川とステーファヌス教会≫


 ドイツによる占領の年月、教会のオルガンは「NSB(国家社会主義運動=オランダの親ナチ党)」のメンバーであった一人の男によって弾かれました。後には、彼の息子 ― その党の軍国主義的な部分である「WA(防衛部隊)」のメンバー ― が弾きました。仕切り板の一つにゴシック文字で次の語句を彫ったのは、彼等であったと言われています。
Gott erhalte unseren Fuhrer. Er schlage die Feinde unseres Volkes. (神よ、我々の総統を救いたまえ。彼が我々国民の敵共を打ち負かしますように。)」


 ホルヴィーデをめぐる戦闘の間に、およそ九百名の住人の内、数十名が亡くなりました。16の農家の内、12が炎上しました。多くの家がひどく破損されるか、完全に破壊されました。


≪ホルヴィーデをめぐる戦闘の恐怖の中、村人達は安全な場所を見つけようとします。
農場から煙が来ます。
これらの写真は、ペルス連隊B中隊の兵士、マードックが撮影したものです。
本当に ....... ホルヴィーデは決してかつてそうであった姿に戻ることはありませんでした。≫


 カナダ軍は ― しばしばマンツーマンの戦いとして知られた猛烈な戦闘の中で再び ― ホルヴィーデの東部も何とか奪取することが出来ました。ホルヴィーデは遂にその解放を祝うことが出来ました。しかし、祝うこと... 村は大きな煙る廃墟の山の一つのように見え、そこには深い傷が残りました。村人の一人が言ったように:「ホルヴィーデは決して再び戦争前のホルヴィアダにはもどらなかった。」
 教会も又直接の爆撃に苦しみ、中はひどい様相でした。ヒトラー側の者達によって弾かれたそのとても古いオルガンは、弾丸や砲弾の砕片によりひどく損なわれました。楽器がその中に納められていた1663年からの元のオルガンケースも同様でした。後者は修復されることが出来1950年に元に戻されましたが、オルガンは修復することが出来ず、50年代に新しいものが取り付けられました。言われたように、中は血の海。雨漏りのする屋根と、引起された更なる荒廃の全て。
 しかし、その全ての真中でその板は見つけられました。ヒトラーについての句が書かれたものではありません。それは跡形もなく消えてなくなっていました。今見つけられた板には、かなり異なった句が書かれていました。ドイツ軍に士官として勤めていたドイツ人医師によって書かれた、と言われています。教会で人質を見張らなければならなかったのは、彼でした。優しい人、そう言われています。


  ≪教会の永久の予言…≫ ≪戦争の後の破損したステーファヌス教会≫


 今教会に掛かっている、この板は語ります。
「つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、正しい者は永遠の礎である。(旧約聖書 箴言10-25)」
 その左下に次のような説明が付けられています:
「この村で戦闘が激しく暴れ回りました。住民達は、始終激しい砲火の下、あらゆる種類の隠れ場所で避難する所を見つけなければならないと感じました。
 いよいよという時、ホルヴィーデの未だ解放されていない部分の多くの人達は、人質として教会へ連れて行かれました;彼等の命と一緒に、彼等は民間人達が戦争行動に参加した場合(ここではレジスタンスが意味されています:トランキール)の保証とされており、状況は耐えがたいものでした!砲火は絶えず衰えることなく荒れ狂いました;しかし、この恐怖のさなかに上記の句が、この板に永久の予言として彫られ、これらの年月の後もずっと、今なお効力を持っています。」


 解放の時、ヤン・ファン・フェルセンは、19才の青年でした。ドイツの砲台がそこからその死と破壊を浴びせた、ナンスム生まれの農家の息子。
 終生独身で、果物栽培者としての職業や、彼の誕生を目撃したその土地に、忠実に留まりました。しかし昨年、彼の健康状態は、農場を去り近くのビールムの老人ホーム「ラウンガボルフ」へ移ることを強いました。
 生涯ずっと、生き、働いた匿名性から、彼を引き出したものは、実にこの転居でした。同じ村の人達には間違いなく知られていたでしょうが、その名前が他の多くの人々の口にのぼるような人物ではありませんでした。


   ≪ヤン・ファン・フェルセンが住んでいた農家≫


 先に触れた「ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン」の5段記事の中で、ジャーナリストのバウワ・ファン・ノルデンは、その青春時代と1945年のホルヴィアダの激しい戦闘の物語を絵に創作したこの独学の男について、読者に知らせます。彼が如何に「狂ったように」描いたかを。そして、彼は創造の衝動の中でペイント・リネンに限定せず、青春時代の思い出を台所の戸棚の戸や寝室のドアの上にも又描いたかを。彼が熱い情動と愛で描いたこれらの作品すべてのために充分なスペースは、老人ホームでの新しい住居にはありませんでした。
 特別な囲み記事の中で、このユニークなコレクションが失われず後代の為に保存されるように世話したのは、「デルフザイル福祉協会、高齢者セクター」のリア・マリングであることを、記者は読者に知らせます。その中でのリアの言葉 :「彼のコレクションは、単なる転居のために失われるべきではなく、誰かがこれを拾い上げなければなりませんでした。」
 その記事全部を読んで、彼女はとても特別な女性に違いない、と結論し、彼女に電話してみることにします。電話の向うから耳にするその声は、実に多くを説明しています。それは、ゆっくりと他の人の話を聞く、暖かくて感じの良い声です。「もちろん、喜んであなた達に協力させていただきます。何が必要か言ってくだされば、それを届けられるように取り計らいます。」
 それが快いコンタクトの始まりで、それから二度、彼女本人と会うことになります。二度目は、この物話全体の中で、「特別な」と呼ぶことの出来る場所、デルフザイルのセンターにある「グランド・カフェ・ヘット・ローカール」で、です。
 このグランド・カフェは、港町のよく知られた歴史的な家屋の中に、2005年以来開業しています。1910年に、「アムステルダムスクール様式」で建てられ、長年ジムとして使われました。戦争の終結に向かっていた1945年、ここの人々はフローニンゲン市から、従ってそこにあった病院からも、完全に切り離されたため、このジムは仮設病院として使われました。
 ホルヴィーデで熾烈な戦闘が荒れ狂い、農家が一つ又一つと炎上していた間 ― それは、ダンテ・アリギエリの長編『神曲』の、最大の罪人としてルシファーがいる、その地獄をますます思い出させました ― よく知られたファミリー・ドクターの J.T.カウパースのような人々が、この仮の病院でほとんど不可能に近い仕事をしていました。
 今、長い年月の後、それは人気のグランド・カフェへと変身しました。そして、ここから毎週火曜の夜8時に地元の「ラジオ・デルフジヒト」の番組がやって来ます。


≪ヘット・ローカール≫  ≪左:マーヤ・ダイクストラ、右:リア・マリング≫


 5月2日、マーヤ・ダイクストラ司会の、今夜のニュース・ショー「ローカーリテイテン」 は、リア・マリングがゲストです。最初に彼女は「SWD高齢者セクター」 が一般に行なっている仕事について少し話します。これは、250名のボランティアによって支えられています! 総人口を考えたなら高い数字であると思います。
 ゲストのこの紹介後すぐに、マーヤ・ダイクストラは本題に入ります。80歳のヤン・ファン・フェルセンの驚くべき物語に。
 リアは、ホルヴィーデにある彼の農家で、彼に最初に会った時のことを、その特徴的な口調で話します。家庭訪問。彼女の仕事の一部として、差し迫っていた転居と、彼女が彼に付き添うことを、知らせること。どのように彼女は、台所兼リビングに招かれ、快適さはないけれど天井から床まで掛かっているたくさんのカラフルな絵のある家であることに気付いたか。これらの絵が、彼にとってどんなに大切で、どんなに離れ難く思っているか、に気付いたこと。絵はこれらだけではないことを彼から告げられた後も、この先まだ彼女を待ち受けていることは知らず、「そうですね。あなたは新しい住居に、それらを持って行けますよ。」と彼女は言ったこと。
 それからどのように、彼が残りの作品を彼女に見せたか。壁々に掛けられ、そして、壁にはもうそれらのための余地はないという単純な理由のために、例えばBedstee (ベットステー:注1) に幾列も立て掛けられていました。


 「私は彼の絵だけでなく、ドアや戸棚、ミルク缶に彼が描いたすべての風景画も見ました。」 と、リアは語ります。
 「ナイーブな絵画技法。遠近法にそんなに注意が払われていないと言うことが出来ます。時々寸法が正確でなく、全体のバランスもそうです。しかし、ファンタジーがいっぱい。時々、実際にはそこになかったものを絵に付け加えています。」


 彼女は笑って、ある時どのようにヤン・ファン・フェルセンが美容師のリヒター夫人のために絵を製作したかを話します。彼女はスイスやオーストリアのような国々へ休暇旅行に行くのが好きで、彼に絵葉書を送ることを決して忘れたことがありませんでした。そういう訳で、彼は彼女のために絵を描きました。スイスの山々を背景に、ノルウェーからの石が並ぶ川の隣に、彼女の住んでいた農家。彼女が始終出かける必要なく、なお、それらの美しい場所にいることが出来るように。
 そして、再び笑いながら、いつも画材を買っていたデルフザイルの店でリネンが買えなかった時、彼はテーブルクロスの裏側に描くことにしたことを話します。「見えます」とリアは言います。「その布の異なった柄が。」
 その解決が見出せず、そのことが脳裏を離れなかったことを、彼女は話し続けます。これらのユニークな作品は、引越しのような些細なことの結果として失われることから、救われなければならない、ということ。
 彼女は「私がアピンハダム市博物館のマネジャーとコンタクトをとりましょう、と彼に提案したのはそれが理由です。」と語ります。


 このマネジャー、マタイス・ドリーベルヘンは、一目見て心を動かされました。彼はコメントの中で、ヤン・ファン・フェルセンの絵画をナイーブで興味あるものとして特徴付けます。それらを通して、ホルヴィーデや周辺でこの50年から60年の間に変化したものを見ることが出来るという理由でも、又興味深いもの。それらはユニークな方法で、村の歴史を語ります!
 マタイス・ドリーベルヘン:「カラフルな絵が画布から火花を放っています。絵を描くことが、ファン・フェルセンには、食べ物や飲み物であったということを、本当に見ることができます。」


 それでリア・マリングは、この信じ難い話の中で次の一歩を踏み出すことを決めます。絵のすべて、ドア等の上に描かれたものも含めて「SWD高齢者セクター」の事務所へ運びます。その建物の屋上庭園へと運び、それぞれを全部写真に撮ります。彼女の同僚、フォルケルト・デ・フラーフはとても感動し、展覧会を開くことを提案します。どこで? もちろん、ホルヴィーデで。 そして、いつ? 5月の初めあたり。というのも、ヤン・ファン・フェルセンは、戦争、ホルヴィーデの最終的な解放に多くの注意を払っていましたから。
 それは、有終の美を飾ることになるでしょう。これは又、自発的に提供された「村の利益協会ホルヴィーデ」とステーファヌス教会による協力の御蔭です。
 骨の折れる仕事が待っています。展覧会自体を手配しなければならないだけでなく、カタログも又デザインし印刷されなければなりません。更に、招待状が作られ様々な公式に招待する人達に送ることも必要です。
 それらに使えるのが短期間であったのにもかかわらず、彼等は美しいカタログを作成することに成功します。それは、ただ作品の写真を見せるだけでなく、それら一つ一つすべてについてや、ホルヴィーデで1925年11月7日に生まれたその画家自身についても、多くが書かれています。
 その80歳の老人にとってとても特別なこの日、ステーファヌス教会は、関心を持った聴衆で満たされます。ホルヴィーデの画家がそこの教会で、州知事によって公式にオープンされる展覧会を開くことは、当然のことですが村では噂の的でした。彼等の前、最前列には、名誉ゲストの面々 ― 州知事ハンス・アルダース、デルフザイル市長セース・ヴァール―、 プロジェクト全体に責任のある人達やもちろんヤン・ファン・フェルセン自身。


 マタイス・ドリーベルヘンがスピーチの最初で、そこでもう先に続く雰囲気が、直ちに明らかになります。親しく、寛いだ、ユーモアを交える余地がたっぷりあるもの。例えば、ヤン・ファン・フェルセンには、今までこんなに多くの仕事をしなければならない引越しはしたことがない、と冗談を言います。


 次はリア・マリングがスピーチをし、その途中、彼女は自然に最前列のヤン・ファン・フェルセンのところに歩いて行き、彼を個人的に話の中に巻き込み、その結果何度も笑い声が聞かれます。


 ≪スピーチをしているリア≫  ≪ヤン・ファン・フェルセンとリア≫


 それから、第2次世界大戦中にここで起こったことすべてについての専門家である、フランス・レンセリンクが、ここで戦われ人々に多くの悲惨をもたらした戦闘について語る、より深刻な話のための時間です。


 そして、幕間の音楽の後、州知事が最後の言葉を求められます。彼もまた、笑いを携えて、です。彼は、ナイーブな絵画の話題に捧げるいくつかの言葉でスピーチを始め、アナトール・ヤコフスキーがその重要な国際的水準の作品の中で述べていることに触れて、話を締めくくります。「ナイーブさが自身の芸術を創造する。」そして州知事は、ヤン・ファン・フェルセンをより良く評する言葉は他にはない、と結論します。そのカタログの紹介の中で、彼自身が表現したように、いつも我が道を歩んだ一人の男。この良い例は、いつもの店でリネンを手に入れられなかった時、彼がテーブルクロスの裏側に描き始めたことに見ることが出来ます。もちろん、フローニンゲン市に行けば手に入れられたでしょうが、彼はそこに行きたくはありませんでした。ヤン・ファン・フェルセンが知事の話の途中、声高に言います。「そうするくらいなら、テーブルクロスを使う方が良い。」 それは州知事に、「スタットとオメランデン」 について、少し冗談を言わせます。(よく知られたフローニンゲン市とオメランデンの間の古い歴史的な対抗意識に関わる、親しい冗談です:トランキール)


 彼は又、戦争について話します。当時若いヤン・ファン・フェルセンに与えた印象についてを。更に、この我侭な画家についていくつかのことを話します。独身を通したこの男、何故なら彼はモイラ のような女性をを再び見つけることが出来なかったから。州知事はそれを感動的な話と呼びます。

≪州知事と楽しく話す
ファン・フェルセン≫



 ハンス・アルダース氏は「アピンハダム市博物館」と協力した、これらの絵の行き先を見つけるための「SWD高齢者セクター」の注目すべきイニシアティブへの賛辞でそのスピーチを終えます。そして、ステーファヌス教会でのこの展覧会へのお祝いの言葉を、ヤン・ファン・フェルセンに ― ホルヴィーデの住民達へと一緒に ― 述べることで。


 私達は展示された絵に沿って歩き、その名前が州知事の楽しいスピーチの中で触れられた、モイラの肖像画のところで、少し長く留まります。カタログは彼女について、より多くを語ります。モイラが、夫を第2次大戦中、イタリア、モンテカシノの戦いで亡くした、イングランドからの未亡人であるということを知ります。戦後ホルヴィーデの小村にやって来て、そこで農場主に英語を教え、ヤン・ファン・フェルセンに出会いました。彼女は2年間彼のガールフレンドだったのですが、ホームシックになり彼女のロンドンをますます懐かしく思い始め、帰国することを決めました。長い間互いに手紙を書いていたのですが、人生のある時それは止みました。
 そして今、彼女が去ってから何年も後に、彼女のような女性には二度と出会えなかった男によって描かれた、彼女の肖像画の前に、私達は立っています。カタログの中でヤン・ファン・フェルセンは、モイラがとてもファッショナブルなモダンな女性で、彼女の香水の香りを遠くから匂うことが出来たと、語ります。そして特に、彼女の緑色にメークアップされた瞳を、とても良く覚えていることを。「彼女と一緒だったことは栄誉でした。」と、彼はカタログを通して、私達に語ります。


 そして、ここ、まさにこの場所から、私達は彼に言います。「ヤン・ファン・フェルセン、あなたと、そしてあなたのナイーブな芸術に出会えたことは栄誉です!」




(注1)Bedstee/Bedstede (ベットステー / ベットステーデ):昔、人々はこの中で寝ました。それは壁にはめ込まれた戸棚のように見えました。特に、日中、扉が閉じられている時には。それはかなり短く、人々は枕にもたれ、座った姿勢で寝ました。彼等は藁の上にシーツを敷いた上で寝、ベットの下のスペースには、例えば、ジャガイモが保存されました。
http://nl.wikipedia.org/wiki/Bedstede に写真が載っています)





ヤン・ファン・フェルセンの
   ナイーブアート


ナンスムの、かつてヤン・ファン・フェルセンが所有していた農家。
建物正面に並んでいる蜜蜂の巣箱は、彼が養蜂家でもあったことを語っています。
彼は蜂蜜を個人に売っていました。
その他にも蜜蜂は、彼のベリーや花を受粉させるのに、とても役立っていました。

                                      
次の絵の手前には、ホルヴィーデの農場が描かれています。
彼はこの大きな農企業で働いていて、モイラと出会いました。
背後の長方形の建物は貧民(のため)の家です。
当時の社会 ― 富める者と貧しき者 ― が絵の中に捉えられています。
彼自身、ここでは寸法が正確でないことを、率直に認めています。
「充分なスペースがありませんでした。」と彼は言います。




実際の貧民の家は、他の画家によるこのスケッチ(左)で見ることが出来るように、又少し違って見えました。


                                  

ホルヴィーデ。この風車の隣にパブがあった平和な村。


しかし、平和な生活が、すべて変わろうとしていました。
村人達は戦争と呼ばれた恐怖に直面することになるでしょう。


次の絵に見られるこのバンカーは、ナンスムのファン・フェルセン家の家のすぐ後にありました。
最も象徴的な絵!






                                 


死と破壊を吐き出しカナダ部隊の「a pain in the neck」であったナンスム砲台。
激しい戦闘の間、ファン・フェルセン一家は地下の果物貯蔵庫に隠れました。


ナンスムのバンカーの残骸のいくつかは、まだなおそこにあります。
今それは羊の地に立っています。

まさにこの場所での戦争と受難を語るこの話と結びつけるなら、賛美歌23(旧約聖書詩篇23)のことが思い浮かぶかもしれません:
「主は私の羊飼い」 …

ホルヴィーデの戦闘。灯台(右の一番上。その上に飛行機)はまだそこにありました。その後、それは空爆で破壊されることになります。
それは生き地獄でした! 荒廃させられた地域。連続砲撃や炸裂する砲弾の空気圧によって、鳥達は死にました。牛、馬、それらは、牧草地で死に、横たわりました ....... 。


                           


しかし平和が訪れ、その中での他の種類の戦い。フットボールのような。
特に、近くの村どおしの試合は、本当の戦いでした。ここに描かれているのは、スパイク[黄色のユニフォーム]とホルヴィーデの対戦です。
一番前の左が、ヤン・ファン・フェルセン、彼自身です。
試合が行なわれた野原では羊が飼われていました。試合前に動物達は移動させられ、試合後には戻されました。







      




ヤン・ファン・フェルセンの作品から、彼がとても純粋な田舎の人であることが、明らかです。
生まれ育った土地と共生している人。彼はその土地を耕し、その自然が彼に秘密を持つことはありません。

彼のナイーブな絵画は、ある種象徴的に、田舎での複雑ではない生活を表現しています。

それらは又、このサイトの名前でもあり、私達にとってとても価値のある「トランキール(静けさ)」をも呼吸しています。。




       







そして、フローニンゲンの絵を完成させるための船と港 :


ヤン・ファン・フェルセン、
彼の 「ワッデン海」 での漁船の印象と…




… 70年代、建設中の 「エームスハーフェン」。
その最初のいくつかのクレーンと、まだそんなに多くはない船。
ガチョウやアヒル、蚊がもっとたくさんいました、と彼は言います。
彼がここでも飼育していた蜜蜂が、それらの建設により邪魔されたこと、そして周辺のもっと静かな場所に置くため、そこから持ち去ったこと。




                      


この記事は次の方々のご協力のおかげです:


リア・マリング(デルフザイル福祉協会 高齢者セクター)
 写真 と情報。
「ダハブラット・ファン・ヘット・ノーデン」2006年4月8日
 バウワ・ファン・ノルデンによる、ヤン・ファン・フェルセンについての記事。
教会管理人会 :ホルヴィアダのステーファヌス教会
 教会についての情報。
コリー・コール
 ホルヴィーデの住人、第2次世界大戦等を含む村についての数多くの記事の筆者。  
兵士 マードック
 ペルス連隊のB中隊(カナダ)。ホルヴィアダで戦闘中に写真を撮影。
 これら2枚の写真は、ペルス連隊(Re-enacted)の兵士ドウェイン・ホルダが与えた
 ヒラルド・ヴィンケルへの使用許可により、ここに掲載させて頂いています。
印刷所「1984」アピンハダム
 E.デ・フリースとJ.ブロンセマの協力による、
 60年後:ホルヴィーデのカレンダー 2005
 激しい戦闘の結果、破損した教会の写真
雑誌「フローニンゲンの教会」 22号 2005年10月No4
 ホルヴィーデのステーファヌス教会についての記事
そしてもちろん:ヤン・ファン・フェルセン自身!

 (その他の写真はトランキールによるものです。)

COPYRIGHT :

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