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J.ディックが書いた本

ソルヴェルダー通り

ソルヴェルダー通り

ソルヴェルダー通り

ソルヴェルダー通り

ソルヴェルダー通り

アピンハダム市の紋章

フランス学校

アピンハダム市博物館

吊り台所

ここで積み下ろし

ハウデン・パント

コルン・アルバート ハストハウス

ハストハウス

ここから曳き舟が出発

ボルヴェルク通り

フィラデルフィア

シナゴーグ

ヴィアダの上

シント・ニコラース教会の中

                     <上の写真:ソルヴェルダー通り>

アピンハダム

 「道幅の狭いアピンハダムの通りを歩いていると、思わず名門の家々の眺めに心を打たれます。それらは、西ソルヴェルダー通りの北側、ダイク通りの南側やハウデン・パントに建てられています。」J.ィック著『アピンハダムの歴史から‐フィフェリンホの古い中心地』(H.D.チェーンク・ヴィリンク‐バウマス・ブックハウス出版、1976年)は、そのように始まっています。


 その言葉が意味していることはよく分かります。デルフの川辺に生まれたこの中世の街を、私達はかなり度々訪れています。文化史的な価値のあるソルヴェルダー通りを歩くのも好きですし、街の中心を流れているダムステルディープに掛かる小さな橋の一つに、しばし留まることもあります。又、広場にある堂々としたニコライ教会(フローニンゲン州で2番目の大きさです)に感嘆し、その隣のテラスで席を探します。
 街のそのセンターに行く度、その輝かしい昔が思い出されます。そこはデルフ川を経て海に直に繋がっていたため、商業が発達したいへん繁栄していました。アピンハダムは、その大きさで、北フローニンゲンの最も重要な商業の中心地にまで成長していました。
 しかし、不運がフィフェルの市を見舞います。フローニンゲン市は、ますます力を増大させるアピンハダムを快く思わず、市が支配していると考えていたオメラント(市の周辺地)に、そのような街が存在することに耐えられず、それ故、戦う必要がありました。
 武力が支配していた時代、その小さな市アピンハダムには、まだ他にも敵がいました。税をめぐって戦うこともありました。例えば1514年には、ジョージ・ファン・サクセンの軍隊による住民の大虐殺という事態も起こりました。その後もアピンハダムは、戦いによる苦難をしばしば被りました。
 商業もうまくいかなくなりました。フローニンゲン市が、オメラントの産物はすべてフローニンゲン市で商いされなければならない、という互市強制権を獲得し、そして又デルフザイルが、アピンハダムを海に繋いでいたデルフ川に、堰を得ました。アピンハダムは大いなる繁栄をもたらしていた海との連結を失くし、間もなくその抜きん出ていた地位を失います。






《散策》



 ヴァイク通りにある、三廊式のニコライ教会(1225年からのもの)から始めましょう。1835年に加えられた塔、以前の市役所(1630年)とその反対側に建て増しされたフランス学校。
 夏の間、教会は訪問客のために開かれていて、そのインテリアを見ることが出来ます。1744年にアルベルト・アンソニー・ハインツによって制作された感嘆すべきオルガンもです。又、素晴らしい細工の説教壇(1665年)が、ペリカンの首の上に設えられています。
 外で再び、アピンハダム市の紋章にその鳥を見ます。自らの血を自分の子供達に飲ませている、犠牲のシンボルとしてのペリカン。又古い市役所の建物正面ニッチにある正義の女神像が人目を引いています。彼女は目隠しされていません!
 教会の向かい側には、アピンハダム市博物館があります。その博物館は、互いに繋がった二つの家屋(二つの住所:ヴァイク通りとダイク通り)の中に設立されています。入り口は、19世紀に住居として建てられたここヴァイク通りに面した家屋にあります。これは、アピンハダムのとても古い建物の一つ、ダイク通りに面した家屋の庭の中に建てらました。その古い建物の西側の部分は13世紀からのもの、東側は1500年頃に付け加えられたものです。
 ダイク通り(私達はダイク通りの家屋から外に出ます)を横切り、ダムステルディープにかかるフラウエン橋にやって来ます。ここで船荷が積み下ろしされていたことは、明らかです。又、何度も写真に撮られ絵に描かれている、有名なアピンハダムの吊り台所が見えます。それらは、かつて重要な港町であった時代には倉庫であった建物に取り付けられたものです。市がその地位を失った後、倉庫は住宅に改築されました。
 橋を渡り、ソルヴェルダー通りを左に進むと、ハウデン・パント(金の屋敷)にやって来ます。その名前は、昔ここに住んでいた金銀の細工師達に因んでいます。
 道を斜めに横切りコルン・アルバート通りを進みます。この通りにはコルン・アルバーツ・ハストハウスがあり、通りの終りには、かつての市の宿「ス・ランツ・ヴェルファーレン」があります。19世紀には、ここからフローニンゲン市に向かって曳き舟が出発していました。それは何時間もかかる旅でした。
 ここから、ボルヴェルク(稜堡)通りが見えます。アピンハダムがまだ城壁、堀、堡塁で囲まれた要塞であった頃を思い出させる名前です。ここで、1536年にその要塞を取り壊させたのは、カール5世でした。
 私達はコーニングス通りの方へ行き、角の大きな白い建物まで歩きます。その建物はフィラデルフィアという名前です。ここで左に曲がり、ブルール通りに入ります。ここには古いシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)があり、その前には、第二次大戦中にアピンハダムから連行されたユダヤ人を追想するモニュメントが立っています。シナゴーグの左側にあるのは、ラビ(ユダヤ教の聖職者)が住んでいた家です。
 その通りの終わりを左へ、そしてすぐに又右へ行くと、モニケンパットです。その小道を通って、私達は今、ヴィー(小高い丘)の上に来ています。ここはかつてアウグスティノ会修道院が建っていた場所で、ブルール(修道士)通りという名前が、今もそのことを思い出させます。
 私達はブルール通りの初め、フィラデルフィアまで戻り、道路を渡ります。私達は今又、その背面に多くの中世建築の断片を残しているモニュメント家屋のある、ハウデン・パントにいます。
 ソルヴェルダー通りへ向かって歩き続け、いくつかの修復された美しい建物を通り過ぎます。4輪馬車が出入りしていた頃が偲ばれる、両開きのドアが、今もあちこちに見られます。
 ソルヴェルダー通りには、以前カトリックの教会であったシント・ニコラース教会もあります。今ここにはNOVO(北部知的障害者のための協会)が入っていて、1階は喫茶室になっています。そこで飲み物や軽食を楽しみながら、アピンハダムの多彩な過去、町を活気付け、絵のように美しい眺めにしているダムステルディープ、イタリアを思わせる吊り台所、ソルヴェルダー通りのエーヴェン・ハウザーという看板がかかった建物の正面のような貴重な建築の数々、について話し続けることでしょう。
そして全てが、暖かく心地よさを放っている、この中世の小さな市の中の歩いて行ける距離にあります。確かに一度訪れる価値のある町です。






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