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5. その頃のデルフザイル


   ≪その頃のデルフザイルの航空写真≫


 1929年、デルフザイル地方自治体は、デルフザイル自身と隣接したファームスム、付近の五つの村から成り立っています。それからデルフザイルの領域は広がり、21世紀の今、更に多くの村々が自治体に属し、現在の人口は28,004人(2006年1月1日現在)です。


 1929年の人口ははるかに少ないもので、9,635人でした。ジョルジュ・シムノンは彼の本『オランダの犯罪』の中で5,000人と言っていますが、デルフザイルの町のことだけを述べているのに違いありません。ファームスムや五つの村を除いた人口です。
 1850年 ― 自治体には4,059人の住人がいました ― と比べた時、2倍以上の人口の増大を見ます。この増加の理由は、いくつかの原因が考えられます。
 1850年まで、デルフザイルにはそんなに大きくない港があります。フローニンゲン市が第一ヴァイオリンを奏し、その地位を守るために「互市強制権」を使うのは、その頃までです。1866年に変化の最初の兆しが現れます。この年、フローニンゲンとデルフザイルの間の新しい連結、エームス運河創設の鍬入れが始まります。ダムステルディープと比べるとかなり改善されたもので、古い水路についてのシムノンの記述はこのことを確認させてくれます。この新しい運河の創設は1876年にその完成を見ます。10年間の仕事! このめでたい出来事は、要塞が完全に撤去されるのと同時に起こります。
 フローニンゲンとデルフザイルの間の新しい水路は又、ヴァイナ&バーレンス(W&B)と呼ばれた海運会社の町への来訪を導きます。それまでにおよそ20年間、フローニンゲン市に事務所を持っていた彼等は、デルフザイルにもチャンスを見て、そこに二番目の事務所を開きます。今日に至るまで、W&Bはその港町と固く結ばれており、既に1世紀以上の長い間主要な役割を演じています。
 もう一つの原因は鉄道の到来です。フローニンゲン‐デルフザイル間の接続で、1884年6月15日に公式に開通しました。
 さらにいくつか注目すべき事柄 ― それは19世紀半ばからその終わりにかけて起こります ― があります。最初の商船学校とパイロットの政府機関の開設です。町はテレグラフの事務所を得、デルフザイル‐ロンドン間の蒸気船の運行が開かれます。


 しか尚1929年にジョルジュ・シムノンが到着するのは、小さな地方都市です。人口の約半数が選挙権を持っています。1000人以上の子ども達が様々な小学校に籍を置き、そこでの上靴の着用を、市長と市議会により、この年の6月28日に義務付けられます。
 中等学校もありますが、そこにはそんなに多くの学生はいません。この時代にはまだ、学ぶことは庶民のために用意されたものではありません。多くの子ども達は小学校に行くだけで、14歳で働きに出ます。


   ≪当時の商船学校(右端の建物)≫


 そしてもちろん、1855年以来そこには商船学校があります。『オランダの犯罪』の中で、ク―ンラート・ポッピンハが教師として働いている学校です。この学校では、L.A.ライニアス校長の下に10名の教師が働いています。ここで、学生達は、近海航路の操舵士や機関士の資格を得ることが出来ます。1・2級の無線の資格も得られます。又、1・3等の遠洋航路の操舵士資格も同様に取得できます。この年 151名の学生が学校に来て、その中の32名が受験します。彼等の内27名が合格します。


自治体の長(市長)は、J.バウスコール氏で、彼は二人の助役、T.G.フェーンカンプ氏とJ.ハイルケマ氏に補佐されています。彼らは町の議会と共にデルフザイルの施政を行っています。


 住民のために、3人のハウスアーツ(ファミリードクター:各家庭はハウスアーツを持ち、すべての医療はこの医師を通して行われます。例えば我が家のハウスアーツはザント医師で、病院で検査や治療を受ける時もまず彼のところに行って必要な書類を得なければなりません)がいますが、歯医者はここには住んでいません。近くのアッピンハダムに住んでいる一人が、ここの人達の治療もします。産婆がいます。そして、4軒の薬屋があります。この4軒について、自治体のレポートは述べています。「法律によって意味されたものとしてではない。」 病院看護に携わる協会、肺結核と闘う委員会、「フルーネ・クラウス(緑十字:社会的なヘルスケアサービスを提供する団体の一つ)」の支部、いくつかのジーケンフォンス(健康保険)があります。


 他の場所と同様、法は警察によって維持されています。市役所の文書室のおかげ、 文書係のJ.ヒレンハ氏の親切な協力により彼等の名前等を知ることが出来ました。
 田舎の警官の長は、H.ヤンセン氏。彼は、田舎警官の J.J.G.スヘーレスとB.フェルトハウスに補佐されています。1929年についての自治体の報告書に、警察について、給料の総額は6,225(ダッチ)ギルダーになる、と書かれています。長の年収は2,325ギルダーで、彼の部下達はそれぞれ年収1,950ギルダー。 更に、服等の経費が365.10ギルダー、囚人の維持費が20.40ギルダーと書かれています。その他の経費が145.15ギルダー。1年間法を維持するための経費の総額は、従って、6,755.65ギルダーです。
 20.40ギルダーの額 -囚人の維持費- から、たいした事件は何も起こっていないことに容易に気付きます。自治体の報告書は、これについて「職務に関する一般的所見」という表題の下、次のように述べています。「職務は日中と同様、夜間も存在します... 混乱は生じていません...」この報告書の中には 354名の名前が挙げられており、その内87名が義務教育に関わるもの、27名が酒酔いに関わるものである、と書かれています。過度の酒酔いすらそんなに多く起こっていないことが明らかです。これは、アルコールを入手できる多くの場所があるという事実にもかかわらずにです。1929年の認可数は? 25! これは又、町に与えられた名前「ドロンケン・デルフジールチェ(酔っ払った小さなデルフザイル)」にもかかわらずにです。大量のアルコールを飲んでいる住人はそんなにたくさんはいません。これは、何ヶ月も海で過ごした後に度を過ごしてしまう船乗り達の間でよく起こります。理解出来ることです。地元の住民では、例えば1日のきつい労働の後、たっぷり飲むのが好きな港湾労働者です。近くのファームスムに住んでいる彼等は、家に帰る途中その小さな路地を通り過ぎ、そのためそれは「イェネーヴァハンキャ(ジュネバ・ジンの小さな通り)」という名前を得ています。時々の過度の飲酒は、ここが港町であるということに関わっている、と言えます。


 ≪港湾労働者の像≫  ≪イェネーヴァハンキャ≫


 シムノンは彼の本の中で、デュクロスに、ここは誰もが自身の生計を立てかなり幸せなとてもきちんとした町である、とメグレに対して話させます。そして「とりわけ、みんな本能を押えています。社会生活を営もうと思えば、それがおきてだし、必要なことですからね...」
 二人の同じ会話の中で、ここでは窃盗はほとんど起こらずパンひとかたまりを盗むことがもう数週間の刑務所入りを意味する、とパイペカンプが話すことをデュクロスは語りますデュクロスは言います。「何一つ規律は乱れてやしないでしょう... 浮浪者は一人もいない!乞食は一人もいない... 」
 これらすべての誉め言葉を考慮にいれるなら、町に与えられた他の名前をどう考えたら良いのでしょうか。「クレイン・アルヒールス(小さなアルジェリア)」。 'ワイルド' な情景が、時々アルジェリア沿岸やそこからやって来る海賊の話を思わせるから与えられた名前。もちろんここでも '不法' は見い出だせます。例えば、密輸や海難漂着物泥棒の行為。しかし、この無害な活動をアルジェリアの海賊と比べることは確かに大げさです。
 既に酔っ払った時に、家に帰る道を見つけるのは問題ないようです。街灯はかなり良いものです。それは電気で、自治体全体に全部で228の街灯があり、そのほとんど半数がデルフザイルにあります。


 シムノンの『オランダの犯罪』の中で、デルフザイルの著名な住民達が集まる「文化の夕べ」のことが話されます。1929年にデルフザイルに住んでいるこれらの著名人とは誰のことなのでしょうか?著者自身は、彼等をダムステルディープ沿いに住まわせています。教師ポッピンハ、養牛場の娘ベーチェ・リーヴェンス... 。私達はしかし、もう一度自治体の報告書を手にします。それは、いくつかの興味深い事実を語っています。給料を基準にするなら、次のようなスケッチが得られます。
 市長の年収5,000ギルダー。自治体の秘書ファン・ユルシンハ氏、4,400ギルダー。商船学校「アベル・タスマン」の校長、6,128ギルダー。そして、教師達の年収は3,000ギルダーから5,000ギルダーの間。
 1,000~1,500ギルダーが労働者階級の平均年収であることと比較すれば ― その頃若いトラックの運転手の年収は728ギルダーだったそうです― 、誰が著名な人達かを知るのは難しいことではないでしょう。彼らにおそらく、農場主、工場主、医師... のような、自営の人々が付け加えられるでしょう。彼らの収入は報告書には書かれていないかもしれませんが、少なくとも幾人かはとてもうまく事を運んでいたに違いありません。


 それらの著名人達は、フローニンゲン市の権力の下で長い間苦しんできたこの小さな町に、ある威厳を与えているのかもしれません。他のものもありました。この大きさの町ではそんなに期待できないだろうもの。そこには、信じないかもしれませんが、三つ(!)の鉄道が、港町から走っています。今では、そのうちたった一つだけが残されています。
 蒸気トラムの会社「オーステルク・フローニンゲン」は、デルフザイルとター・アペルの間を走っています。それから先に述べた、デルフザイルとフローニンゲン市の間の鉄道があります。そして最後に、デルフザイルとザウトブルックの間に1910年より「ノード・オースター・ローカール・スポールヴェヒマーツハパイ(NOLS:北東ローカル鉄道会社)」があります。「ヴォルチェルスポール」はこの後者の軌道をヴァイヴェルトまで使います。その村からは自身の線路を使っています。
 ジョルジュ・シムノンが客となり、メグレがビールを飲むホテルの名前は「ノードオースター:NOLSを人々はそう呼んでいました。(現在はホテル・ドゥ・バスティオン)」です。ホテル右側の通路の上には、「WACHTKAMER voor de TRAM(トラムのための待合室)」と書かれていますから、トラムの乗客達はここでも待つことが出来ます。


 ≪ホテル・ノードオースターとトラムのための待合室≫


 実際小さな地方都市にすぎず、ジョルジュ・シムノンは歩くことが好きなのですが、彼がトラムで出かけただろうことはほとんど間違いありません。それがただちょっと出かけてみるというだけであったとしても...
 そして確かなこととして、著者が、その1ヶ月の滞在の間に電車でプロヴィンス発見のための旅行をしたということが知られています。彼が「ヴォルチェルスポール」でスロホテレンへ行き、その訪問が『ローデザント(サブレス・ロウゲス)の館』という著書になったように。
 レールはホテルのかなり近くにあり、その騒音はそこの泊り客にはうるさいものに違いありません。しかしこれは、田舎の 'トランキール' の方が好みであるが故の、間違った憶測かもしれません。


 デルフザイルの周辺は主に農地です。絵のような村々には港町の喧騒はありません。トラム、電車や汽車がそこも通過しているのですが... 。 しかし、それは同じではありません!
 1929 年の農業について自治体の報告書は、素晴らしい、と述べています。又牧畜についても、良好、と書かれています。一年に一度ラントストラートで開かれる家畜市のことにも触れています。そのニュースは良いものです!
 何ヘクタールもの農地に様々な作物が栽培されていることを知ります。小麦(夏と冬)、ライムギ、大麦(夏と冬)、カラス麦、インゲン豆、エンドウ豆、サトウダイコン、冬菜種、カラシの種、ヒメウイキョウの種、亜麻、ジャガイモ、等々。
 それは又、農場にますますトラクターが見られるようになった、と語ります。機械化の始まりです!


 報告書の中には、素晴らしい農産物と書かれていますが、全般の雰囲気はそのように見ることはできません。デルフザイルから東、大雑把にエームス運河とドイツとの国境の間の地域では、激しいストライキが進行しています。農場労働者達の間で不安が燃え上がっていました。以前にも起こったように。今回はとても深刻です。アナーキスト、コミュニスト、そしてその他の者達。彼等は、労働者達が快適さとはかけ離れた社会的状況にいる一方で、アムステルダムの運河沿いの家々と競い合うような農家に住んでいる農場主達に対して、反乱を起こします。フローニンゲンのこの地域は、又「デ・フラーンレプブリーク(穀物共和国)」としても知られています。そのストライキ、労働者と農場主達の地位やこの地域のコミュニズムの役割について、これらすべてについて多くのことを語ることが出来ます。しかし、この稿では幾つかのことに触れるだけにします。例えば、デルフザイル市長、J.バウスコール氏が、そのストライキの間、仲裁人をつとめるというようなこと。バウスコール市長は真のフルナハー、地域の子供です。彼は隣接の村ヘーフェスケス出身ですから。
 それはただコミュニストやアナーキスト等だけではなかったということは、よく知られ又人気のあった近隣アッピンハダムの新教の牧師A.N.トンスベーク氏が、1929年9月にジャーナル『Nieuw Christelijk Leven(新しいキリスト教の生活)』の中でストライキについて書いたという事実から、明らかになるかもしれません。彼は自身の考え、農場主達への彼の非難を、オープンに話します。彼の心の底からこみあげる、労働者達に抱く深い同情に基づく非難。ここで注目すべきなのは、彼自身が、ストライキが起こっている地域の農場主の娘と結婚していることです。
 ジョルジュ・シムノンが、ここ、この反乱の地域に滞在して、それについて何を考えたのかは分かりません。ただ、4年後に彼は、東フローニンゲンのストライキ参加者の何人かを鼓舞させている男と会うであろう、ということを知っています。
 1933年の夏 ― 彼のメグレ小説はその時既に成功しています ― 著者は再び旅行中です。この時は、東ヨーロッパをです。旅行以外に、彼は『パリ・ソワール』に「 Peuples qui ont faim 」という表題の下にルポルタージュを書きます。彼が届けた意外なものは、1933年6月7日に彼が行なう、レヴ・ダヴィドヴィッチ・トロツキーとのインタビューです。トロツキーがスターリンによって国外に追放された後亡命者として住んでいる、その時プリンキポ島として知られている場所で、彼はそのユダヤ系の革命的コミュニストと会います。今日私達はプリンキポを、マルマラ海にある九つのプリンス諸島の最も大きな島、Büyükada(トルコ)として知っています。彼のトロツキー訪問の思い出を、シムノンは後に「 A la rencontre des autres 」の中に書き留めるでしょう。


 堤防が時々の怒れる水から守っている、その陰にあるこの小さな町では、最も重要な活動がその住人達の生活を様々に彩っています。三方は、農場主が作物を生育させ家畜を緑の野で放牧する田園地帯で縁取られています。四方を満たすもう一方には、多くの人々の生活主動脈、かなりの数のデルフザイル行きの船が航行している、エームス川があります。
 農業と海運業の両方が、この自治体の工業や施設の種類に刻印を与えています。


 ジョルジュ・シムノンのオストロゴトが修理されるルールフス兄弟の木造船建造の造船所は、1890年頃ダヴィット・ルールフスによって創立されました。彼等は、船に積載する小艇や平底船を建造し、木造のチャルク(小型帆船)を修理しました。又、2隻の木造パイロットカッターの整備も行ないました。
 20年代の初め、ルールフスの若い世代、D.J.ルールフスとR.ルールフスが引き継ぎました。彼等は船架を電化しました。当時鉄製のチャルク等も修理されましたが、木造の小艇や平底船もなおここで建造されました。
 50年代の初めに造船所は新しい所有者に売却されました。それからそれは、60年代の初めにデルフザイル自治体に売却されました。
 C.ロッヘンカンプ氏は又、「オストロゴト」とジョルジュ・シムノンについて語ります。「私の父は、シムノン夫妻と造船所の所有者との間の通訳をしました。」


≪ルールフス兄弟の造船所(手前左:D.J.ルールフス、手前中:R.ルールフス)≫


 ルールフス兄弟のもの以外にも、造船に附随する典型的な騒音が楽曲のように響いている、まだ三つの造船所があります。デルフザイルの銅細工師や製帆業者も、その生産物をこれらの造船所に届けています。更に、船大工のために古い手工業品 ― その時以来、ずいぶん以前になくなってしまいましたが ― を製造している会社も、そうしています。
 材木が大量に利用できるることから、二つの製材所、三つの木工所と三つの家具工場があるのは、とても自然な成り行きです。
 農業の分野では、自治体の中に、五つの製粉所、肥料を商う会社、肥料をすり砕く施設と蒸気乳製品工場があります。













≪かつての牛乳工場
 「デ・エームス」≫


 五つの機械工場、十の鍛冶屋、三つの煉瓦工場、二つの石切り作業所と二つの花卉栽培所があります。コンクリート工場や自転車工場...
 印刷所もあり、その一つは地方紙「デ・エームスボーデ」を出版しています。
 リキュール蒸留所があり、三つの会社がビールの瓶詰めをしています。
 最後になりましたが、四つの魚燻製所のことも言っておかなければなりません。漁業は小規模で実際大したものではない、ということも付け加えておく必要がありますけれど。


 港には、デルフザイルやその周辺の人々を惹きつける活気があります。港を訪れることは、男の、女の、子供の、生活に属しています。それに不思議はありません。何故ならここでは冒険が味わえ、世界を間近に見ることが出来るからです。町のこの生き生きとした心臓の鼓動の音は、その訪問者の心を誇りで満たします。荷を積んだ、あるいはまだ空の船を、勇敢な船乗り達がここへ運びます。人々はただ船乗りたちの冒険を夢みるだけなのかもしれません。彼等が訪れる外国の港の、彼等が航海するこの地球上のエキゾティックな土地の、夢だけを。何という生活! 多くの少年の心は ― そしておそらく大人の心も ― 興奮します。もしも、... だったなら... 。


 次のようなものが輸入されます。木材、肥料、玄武岩、(陶器製造に使う)鉄を含んだ土、ポートランドセメント、砂、石炭、コークス、飼料、貝殻、等。それらは、アフリカ、アメリカ、イギリス、ドイツ、スカンジナヴィア、ロシア、バルティックの港... からやって来ます。
 次のようなものが輸出されます。石炭、コークス、木材、煉瓦、鉄を含んだ土、肥料、ジャガイモ、オイル、砂、穀類、魚、水ガラス、くず鉄、等。アメリカ、イギリス、ドイツ、デンマーク... へ。


 市庁舎の文書室は発見のための宝庫で、それは今も興味深い数字を列挙します。直ちに目につくのは、例えば81,385トンの石炭、29,010トンの砂、23,650トンの未精製リン酸塩と、58,331トンのチリ硝石です。もう長い間デルフザイルの人々は、民間でそう呼ばれている「チリ船」のことをよく知っています。1905年に、その最初の船がチリからノン・ストップで到着しました。 それはイギリスの3本マストの帆船「キルカ」で、チリのタルタルから2,200トンの硝石を運んで来ました。124日間かかった航海でした!


   ≪丸太の浮かぶダムステルディープ≫


 材木の総量 ― 様々なタイプの材木から成る ― について、自治体の報告書は述べます : 26,165スタンダード(1スタンダード=3.4672立方メートル)
 「ダムステルディープ」 には、69,538立方メートルの材木の筏が数えられます。著者は本の中でこの運河について、それは曲がりくねって泥深く岸に美しい木立がある、と述べています。とてもロマンティックなところでそんなに運送には使われない、と人は考えるでしょう。シムノンが言うように、それはこれらの筏やより小さな船のために使われます。
 「ダムステルディープ」に取って代わるために掘られた「エームス運河」について、自治体のレポートは語ります :入船5,407、出船5,124(主として内陸水路を航行する船に関するもの)。この運河を通過する遠洋航海の船の数は、入船332、出船399です。


 自治体の中には五つの銀行が設立されています。今もなおデルフザイルの主要な船会社W&B創設の父の一人、S.バーレンス氏は、ネーデルラント銀行を代表しています。


 DAMという会社のバスが、フローニンゲン市へ走っています。そして、アッピンハダム-デルフザイル-ファームスム-ヴァイヴェルト-タームンテン-ヴォルデンドルプの路線。様々な貨物運送サービスが、アッピンハダム、ビールム、タームンテン、ヴィンスホーテンとの間と同様に、フローニンゲン市との間も行き来しています。それらはすべて半径30km以内にあります。


 人々や品物の輸送のために、デルフザイルとフローニンゲン市との間、デルフザイルとドイツのエムデンとの間に、船での毎日のサービスもあります。


≪汽船のサービス:
 デルフザイル-
 フローニンゲン≫









 夏にはデルフザイルとドイツの島々、ボルクムやノーダルナイとの間の汽船サービスもあります。そして不定期ですが、デルフザイルとドイツのヘルゴランド島との間にもです。
 一つのドイツの町と三つのドイツの島々。ジョルジュ・シムノンはそれらのどこにも、汽船では行かないでしょう。何故なら、ドイツで彼は容疑者の可能性ありと見られ、そこでは歓迎されないのですから!


 そういう訳で、彼は使える時間をすべて書くことのような他の興味あることに費やすことが出来ます。彼の創作、メグレ、この町の殺人事件を解くフランス人警部、に。ホテル・ファン・ハッセルトでの文化の夕べも又、一つの役割を演じる事件。デルフザイルでの文化生活なんて、と人は不思議に思うかもしれません。しかし、あるのです!アイスクラブは断然最多数の会員を有しています。550名。冬には多くの人が氷の上に楽しみを求め、スケートは人気のある娯楽です。279名の会員を持ちリストの二番目に来るのは、よく知られた好評の帆走と漕艇のクラブ「ネプツーヌス」。このクラブは毎年「ピンクスターフェーステン(聖霊降臨祭)」を開催しています。そして三番目は、労働者のためのクラブで250名の会員。又二つの吹奏楽団があります。一つのブラスバンド。九つの合唱団。大衆娯楽のためのクラブ。体操クラブ。二つの演劇クラブ。フットボールのようなスポーツが出来るクラブ。等々。退屈な町ではありません。そこにはいつも、することが何かあります。




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