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6. メグレ・ウォーキングツアー

≪メグレ・ウォーキングツアーの地図≫


 約75年の後、シムノンによって「玩具」と描写された、その町は変わりました。かつて燃え立つバラでとても美しかった公園や、夏聴衆を楽しませた音楽堂は、なくなりました。駅のすぐ前は、乗客をプロヴィンスの様々な場所に運ぶバスの乗り場になっています。この公園の一部は又、フローニンゲン市への自動車道N360のためにも使われました。
 『オランダの犯罪』の中で描かれたものすべてが、ここでまだ見られるわけでないことは確かです。しかし約6kmのメグレウォーキングツアーは、今なお、ことが起こった場所の素敵な印象を、あなたに与えることが出来るでしょう。
 私達は、著者シムノンが客として来た1929年とほとんど同じように見える、ホテル「ドゥ・バスティオン」にいます。このホテルは、当時は「ノードオースター」という名前で、ある評判を得ていました。ランプステーキにジャガイモのフライと季節の野菜を添えた料理が出されることで有名でした。バールームには、ビールのポンプがカウンター後ろの壁の大理石板に備えつけられ、家具にトネット-ウィーン風のテーブルと椅子が使われていました。
 シムノンも又、その一つの椅子に腰掛け窓から外を見ていて、メグレを反対側の駅へ歩かせるというアイデアを得たのでしょうか... 彼がどんなふうにそんなスケッチをしたのか、想像出来ます。
≪ホテル・ノードオースター≫ ≪ホテル・ドゥ・バスティオン≫


 私達はホテルを出、左へ。すぐに又左に曲がると、ABN-AMRO銀行の前に、著者ジョルジュ・シムノンについて書かれている本の形をしたインフォメーション・スタンドがあります。

≪左:インフォメーション・スタンドと
    ABN-AMRO銀行≫

 私達はまっすぐに進み、市庁舎を通り過ぎます。すぐに、メグレが通り過ぎた時と同じように見えるカトリック教会が左手に見えます。右手には、この部分だけが今なお残ってる堀があります。当時はここにたくさんの丸太が浮かんでいました。
≪カトリック教会と丸太の浮かぶ堀≫ ≪現在のカトリック教会≫


 道を進み続け、私達はバウスコールプレイン ― 前述のバウスコール市長にちなんで命名されています ― に着きます。ここで私達は右に曲がらなければなりません。フランス人警部がこの道を歩いた時には、ここにはスニクブルッフ(「スニク」は乗客や貨物を運んだ引き船の名称、「ブルッフ」は橋)と呼ばれた橋がありました。それは、アウデ・スハンスとライクスヴェヒを結ぶものでした。
≪左:ブルへメースター(市長)バウスコールプレインの表示≫

≪スニク橋≫ ≪かつてスニク橋があったところ≫

 私達はライクスヴェヒを歩き、ほんの少しで殺人の舞台に到着します。31番地のその家は、今なお、ここダムステルディープの横にあります。後者について、シムノンは書きました。「運河の水面は1,2メートルほど見えるだけで丸太がぎっしり浮かび、あたりの風景に異国情緒をそえている。」彼は本の他のページで、再び「筏になっている丸太」そして又「農家」「船舶修理場」のことに触れています。


≪ライクスヴェヒ31番地≫ ≪ダムステルディープ、右岸からの眺め≫
≪かつてのダムステルディープ:たくさんの丸太が浮かび、向こう岸は工場地域になっていました。大きな船はエームス運河を利用し、小さな船だけがここを航行していました。≫

 ここは、いくつかの理由で興味深い場所です。『オランダの犯罪』の中でシムノンはデュクロに、ダムステルディープ左側のこれらの家々には名士達、裕福な人々が住んでいます、とメグレに対して言わせます。皆が彼等を知っています、とデュクロは言います。市長、牧師、教師、役人...
 今、私達はダムステルディープの右側に「ドクランデン」と呼ばれる新しい町の区画を見ますが、ここは長い間、デルフザイルにまだ要塞があった時から工業地域でした。ここには造船所が見られ、その一つは、ジョルジュ・シムノンが1929年に「オストロゴト」を修理してもらったルールフス兄弟のものでした。ここには又、煉瓦工場や最初のポートランドセメント工場も見られました。ヤン・ブロンスが彼の最初のエンジンを製造し始めたのも、ここでした。後に近くのアッピンハダムに移り、彼のエンジンは世界的に知られるようになるでしょう。とても有名になるとさえ言えるでしょう。
≪ドクランデン:
デルフザイルの新しい住宅区画。かつてここには、ルールフス兄弟の造船所やその他の工場がありました。≫

≪ダムステルディープとルールフス兄弟の造船所≫

 そして木材のことを話すなら、もちろんロティングハウスとロッヘンカンプの会社。デルフザイルでよく知られた名前です。ここでは北東フローニンゲンで最初の蒸気工業が1854年に見られました。オランダで三番目の蒸気製材所。ロッヘンカンプの製材所は、本の中でベーチェ・リーヴェンスが父と住んでいた養牛場のモデルとなったファーム「リンゲヌム」の反対側にありました。ファームの名前はかつてここにあった「ボルフ」に関連しています。実際「ボルフ」を囲んでいた堀の一部は、まだファームの隣に見ることができました。
≪ファーム
  「リンゲヌム」≫

 周辺にはいくつかの「ボルフ」がありました。最も良く知られているのがファームスムの「リッペルダボルフ」で「ファームスムの家」としても知られていました。それほど知られてはいないのですが「リンゲヌム」も又、かつては重要な場所でした。というのも、ここには16世紀に、ファームスムのリッペルダ家と関係のあったハロ・ヴィンケン ― 彼の名前は時々ヴァイネケンとも書かれました ― が住んでいましたから。近くのアウトヴィアダの教会でハロ・ヴィンケンの墓石を見れば、彼が影響力を持った人物であったことが分かります。
≪アウトヴィアダに続くモア≫ ≪アウトヴィアダの教会≫

 約百年の後、その「ボルフ」は売却されましたが、何とか家族の内に留まりました。その「ボルフ」の記述の中で、家の他にも、家畜小屋、堀、教会の祈祷椅子や地所を所有していたことが知られます。かなりのもの!しかし事はそんなにうまく運ばず、ゆっくりではありましたが確実に「ボルフ」はますますその重要さを失っていきました。19世紀には、ただの別荘になり、すぐ後にすっかり姿を消しました。それはメグレがその家畜小屋でベーチェに初めて会う単なるファームとなりました。
 1959年にファーム「リンゲヌム」は取り壊され、今この場所にはバンガローハウスの一群や「O.L.V.ステレ・デル・ゼー」という名のカトリックの小学校があります。
 1966年、出版社ブルーナが彫刻家ピーター・ド・ホント作のメグレ像をデルフザイルに贈呈してから、警部はかつて「リンゲヌム」があった方向をずっと見続けています。 
≪メグレの像とバンガローハウス≫   ≪メグレの像≫

 私達はドクランデンを通るルートをとり、ダムステルディープにかかっている橋を渡ります。ミトスヘープスという道を歩き、古い方のエームス運河にあるドックに着きます。当時そこには、コルネリス・バーレンスが寝泊りしていた商船学校の寄宿舎船「アベル・タスマン」が停泊していました。
≪寄宿舎船「アベル・タスマン」≫

 「エムス運のひろびろとした水面が映りだした。その入りこんだところに黒と白に塗った大きな船が一艘、一きわそびえ立ち、舷窓には一つ残らず灯が輝いていた。ひどく高い船首である。一本マストと、帆桁。それはオランダ戦争時代の古い軍艦であった。建造後百年は経っている。航行不能となってからは、そこにすえつけて、海軍兵学校生徒用の練習船となっている船だ。暗い人影とたばこの火の光が見える。娯楽室からピアノの音が洩れている。とつぜん、警鐘が鳴った。甲板に散らばっていた人影がタラップの前に一団となって集まった。遠くのほう、町へ通じる道から、遅刻しそうな四人の青年が大急ぎで駆けつけてきている。まるで小学校の新学期の授業始めだ。学生たちが、みんな十六歳から二十二歳までの青年であって、一人残らず海軍士官の制服を着こみ、白手袋をはめ、金モールのはいった堅い帽子をかぶっていることをべつにすれば... 。四人の青年が走ってくるのを、一人の年配の当直将校が上甲板の舷側に肱をついて、パイプを吹かせながら見守っていた。」
 彼等のうちの一人は、近道をして、ダムステルディープに浮かんでいる丸太の上を歩いて向こう岸に渡ったコルネリス・バーレンスです。
 私達はエームス運河に沿って歩き続けます。しかしその前に、私達が今立っているところ、ここからはっきり見える、高さが48mあるファームスムの教会の塔を指差しておきましょう。昔、この塔は船乗り達のビーコンでした。



≪左:ファームスムの
    教会の塔≫

  突き当たりを左に曲がると、ニュウェヴェヒです。すぐに、ドルプスターザイルとスハルマーザイルという堰が、かつてあった場所を通り過ぎます。いわゆるバルケンハーフェン(材木港)で荷揚げされた丸太は、そこを通ってダムステルディープに運ばれました。記念として三角形の堰頭がここに置かれています。
≪かつての堰の絵≫

≪堰頭のモニュメント:
左上写真の手前のモニュメントと左下
の写真はスハルマーザイルとスロホタ
ーザイルの堰頭。
右上の写真はドルプスターザイルの堰
頭で、堤防に沿って右に曲がるとイェネ
ーヴァハンキャ(ジュネバジンの小道)
です。≫

 この近くに、メグレがパイペカンプとその殺人事件について議論した、ホテル・ファン・ハッセルトがありました。その話合いの間、彼等はオランダ特製のヒュッツポットを食べました。この同じホテルで、デュクロの講演も行われました。残念ながら、このホテルも取り壊されています。
≪スニク橋とアウデ・スハンス≫   ≪現在のアウデ・スハンス≫

 
 ≪アウデ・スハンスにあったホテル・ハーモニー(ホテル・ファン・ハッセルト)≫

 ここから、狭い路地イェネーヴァハンキャ(ジュネバ・ジンの小道)を通って、デ・ラウターの絵が描かれている小さな水門へと歩きます。ここは、プランクパット(浮き桟橋の小道)―今はダムステルカーデと呼ばれています― で、オースティング、ボスの船が停泊していた場所です。


≪上 : ミヒール・
     アドリア-ンスゾーン・
     デ・ラウター≫


 再び門を通って戻り、右に曲がります。
 さて、私達は、かつての市庁舎に到着します。この中に、警察署もありました。たった3人の警察官、それが、デルフザイルの警察力でした!!! 「その頃のデルフザイル」で述べたように、ここではほとんど犯罪は起こりませんでした。社会的な抑制力が大きいものでした。もしも不穏なことが起これば、市長は近くのアッピンハダムに駐在していた保安隊に応援を頼むことが出来ました。その場合、彼等は馬に乗ってデルフザイルに駆けつけました。




≪左:かつての市庁舎≫

 ここから最初の通りを左へ行くとラントストラートです。ここに当時商船学校がありました。この建物は、今、アンティークの時計店と海事用品の店として使われています。
≪ラントストラートの元商船学校のあったところ≫   ≪左と同じ≫

 私達は、ラントストラートの初めに引き返し、左の方へ歩きます。その方向に港へ通じるメインゲイトがあることには、ラントストラートに入る前に既に気付いています。元々これは要塞の門でしたが、1833年に再建されました。Wの文字と王冠は、その当時国を統治していた王、ウィリアムⅠ世を思い出させるものです。
 
≪門の上の「W」≫

 ジョルジュ・シムノンはこの門について書いています。:
「この堤防の通路は、海が荒れたときは、水門の扉に似た重い扉で閉ざされるようになっている。はるか彼方に、エムスの河口がある。」
 ここは、何も変わっていません。壁の印は1962年2月16日に、水がどれだけの高さに到達したかを示しています。重い扉は町を洪水から守るために、今なお閉めることができます。私達には、守りが必要です!
≪門の港側(右横に1962年2月16日の水位の印)≫  ≪水位の印の拡大≫

 この門の近く、私達の左手に、シムノンがデルフザイルを訪れた時には「ホテル・デルフザイル」と呼ばれていた、もう一つのホテル・ファン・ハッセルトがありました。これも取り壊され、今は現代風なアパートメントの建物になっています。(先に出てきたホテル・ファン・ハッセルトは、「ホテル・ハーモニー」と呼ばれていました。)
≪ホテル・デルフザイル
  (ホテル・ファン・ハッセルト)≫
  ≪アパートメントの建物≫

 ジョルジュ・シムノンは、彼の著書『オランダの犯罪』の中で、両方のホテルを混ぜ合わせ、一つのホテルのように使っています。

 私達は、その門の横にある階段を上り、遊歩道を、左へ。
 少し歩いてから「ケ―ルヴェール」という名前の歩行者用の橋を渡り、殉職したパイロットのためのモニュメントへと到着します。その左手には、シムノンがよく通った、そしてそこでメグレという人物を創造した、パビリオンがありました。

≪パビリオン≫

 私達は堤防の上を歩き続け、デルフザイルのいわゆる 「バッパークンスト(はためく芸術-堤防の上に置かれた高いポールから楽しげに風に翻る旗の一群 )」を通り過ぎます。ここはいつも風が吹いている、と人は言います。これらの旗は、このギャラリーのために特別にデザインされたもので、よく知られた芸術家マルテ・ラゥリングの作品もあります。
 2003年9月、港町が有名なパリジャンの警部を称える特別な週間を持った時から、「メグレ」の旗もこの「はためく芸術」の一部となりました。その年町の文化評議会は22名の地方の芸術家を旗のデザインのために招きました。評議会はカルラ・デ・ヴィンターのデザインを選びました。それは、パイプ、明るい赤い色の灯台と、派手な色の花々を描いています。アーティストである彼女自身が説明します。「本の中で表現されている暖かさ、親しみやすさ、心地よさを、私は赤い色を使うことで表現しようと試みました。本に出てくる赤い小さな家々を、私は赤い灯台に変えました。そして私が描いた花々は、『オランダの犯罪』の中で述べられた、きちんと整った花壇を表しています。パイプはそれ自身が語っています。」

 ≪左:メグレの旗≫







     ≪右:ギャラリーの
         メグレの旗≫

≪エームスホテル≫  photo by J.Doornbos

 ほんの少し歩くと、私達はエームスホテルの前です。昔ここには、開場時間を潮の干満に合わせた海水浴場がありました。当時は厳格な規則があり、例えば、男性と女性、少年と少女は分けられていました。着替えなどは、毎年シーズン前に建てられシーズン後に撤去された木造の建物の中で、出来ました。
 シムノンに関わる楽しい話を語ることが出来る海水浴場。

≪海水浴場の建物≫    ≪エームス河口の"海水"浴場≫

 ジョルジュ・シムノンが、オーク製で喫水2m、水漏れのある「オストロゴト」でデルフザイルに到着したその日、船にはオラフという名前の犬と二人の女性が乗っていました。彼の妻ティジーと、料理人で船仲間のブールです。 この婦人達は、デルフザイルで普通見られる女性たちとはとても異なっていました。二人は水夫服のような脚部が幅広の男物のズボンをはき、ブールは赤いポンポンのついたフランスの水兵帽をかぶっていました。
 シムノンがデルフザイルの町を歩き回り、時々旅行をし、小説を書いていた間に、ティジーは船の下に横たわり、船底をこすってきれいにし、透き間にまいはだを詰めたりタールを塗ったりしていました。女性たちはなかなかの二人でした! 暖かい9月だったので、二人は海水浴場へ行って泳ぐことにしました。 親切で世話好きな夫婦が浴場の監視をしていました。ティジーとブールは木造の建物に入った後、二つのドアに気付きました。左側のドアには「Heeren」、そして右側のドアには「Dames」と書かれていました。二人は右側のドアを選びました。女の監視人が彼女たちを見てフルニングスで言いました。「Alles wat ain boksem aan het, and're kaant.(ズボンをはいている者は皆、反対側。)」そして二人を「Heeren」と書かれたドアの方へ押しやりました。「Nee(いいや)」と男の監視人が言いました。「Aal die dit hebben(こんな者は皆)'」と手で女性の体形を描きながら、「and're kaant!(反対側!)」
 彼女たちはことを理解しませんでしたが、幸いそれは解決されました。何とか妥協に到達出来ました。彼女たちは泳ぐことを許されましたが、次回からはスカートをはいて来なければならなくなりました。女性が男物の服を着て歩くことは、とても不道徳なことでした。

 堤防の上からゼーバットヴェヒ(海水浴の道)へは、ミューゼーアクアリウム(博物館)の入口に向かう階段を使います。




≪左:博物館の中の
 「アベル・タスマン」の模型≫

 博物館の左側の道をとれば、線路の踏切に出ます。右手に再び、デルフザイル駅と、2時間ほど前にツアーを始めたホテル・ドゥ・バスティオンを見ることが出来ます。私達はここからホテルへと歩きます。コーヒータイム... それともビール!




≪左:ホテル・ドゥ・バスティオンの中≫

 駅はもう公園で遮られていないので、その眺めをはっきりと目にします。私達は、とてもとても朝早く「シムノンの息子」がその駅に向かって歩いていった姿を、ほんの少しのファンタジーで想像出来ます。デルフザイルでの殺人事件を2日の内に解決した後に。そして、そこには彼に感謝する者、彼に「さよなら」を言う者すら、誰一人いませんでした。
≪かつてのデルフザイル駅≫ ≪現在のデルフザイル駅≫



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